龍煕近
From Wikipedia, the free encyclopedia
元和2年(1616)、伊勢、宇治山田(現・伊勢市)に生まれる。父は煕香。10歳のとき、父が死去。母方の松尾氏に育てられる。
龍氏は代々「龍大夫」という御師(師職)で、「山田三方」という自治組織の「年寄」を務めていた。文保元年(1317年)の文書に「龍大夫」の名がある(『光明寺古文書』)。関東地方を主な師檀地域とし、房総半島一帯はほぼ龍氏の担当だった[3]。煕近の時代も、外宮前の大世古町に大邸宅を構えている[4]。
煕近は成長して学を好み、神典の中に仏書に関するものが多いのを見て、仏書の研鑽に志を立てる。「戒」を了慧律師に受け、「密法」を玄心阿闍梨、真常院亮典上人に学ぶ。また「臨済録」を読んで教外の旨に感ずる。
慶安5年(1652)、36歳。慈遍の『豊蘆原神風和記』を書写する。のちの智積院僧正・運敞(うんしょう)と書簡を交わし、弟子の礼をとる。承応2年(1653)、37歳。『外宮儀式帳』を書写。明暦2年(1656)、40歳。『中臣祓加直抄』を著す。
万治3年(1660)、44歳。西山宗因が伊勢を訪れたとき、俳席に参加。万治4年(1661)、45歳。『類聚神祇本源』を書写する。寛文2年(1662)、46歳。俳諧集『伊勢正直集』に45句入集[5]。
寛文3年(1663)、47歳。黄檗山萬福寺に上り、隠元禅師に参ずる。隠元と筆談で問答し、法名「道旦」を授かる[6]。隠元に書を呈している[7]。

寛文12年(1672)、56歳。京都、賀茂家に伝わる『倭姫命世記』を書写し、校訂する。延宝元年(1673)、57歳。『神国決疑編』が成る。延宝3年(1675)、59歳。延宝の飢饉に際し、街に出て粥を施す。
延宝4年(1676)、60歳。尾張、大須・法生院に、伊勢の神書を蔵することを伝え聞き、満彦長官の命を受けて同院に就く。度会忠親親蹟の十二巻の目録、神宮雑事記の下巻、神祇本源末巻を書写して帰る。延宝5年(1677)、61歳。『神国決疑編』に運敞が序文を書く。
延宝8年(1681)、65歳。『大成経』に対する批判書『大成経破文』を著す。天和3年(1683)、67歳。熊野那智の僧侶に請われ「神書」を講ずる[8]。貞享4年(1687)、71歳。『外宮神徳略記』を著す。
貞享5年(1688)、72歳。松尾芭蕉の訪問を受ける(『笈の小文』の「龍尚舎」)[9]。このころ煕近は伊勢俳壇の中心人物で、息子の「煕快」も活躍している。
元禄3年(1690)、74歳。梅香寺、寅載(いんさい)和尚の「選擇集」の講筵に列して浄土門の旨を窺う。『梅香寺縁起』を著す[10]。元禄4年(1691)、75歳。『神国決疑編』が板行される。元禄5年(1692)、77歳。冬、病を得る。元禄6年(1693)、78歳。8月、妻子を呼び床から降りて、はるか両大神宮と摂社を礼拝し、念仏を数十回唱え、笑みを含んで往生した。[11]
逸話
伝記資料
- 『神境人物誌料』巻八
- 神境人物誌料(大阪公立大学杉本図書館)、(『扶桑往生全伝』『蟄居紀談』などから編集したもの)
- 新聞顕験往生伝(筑波大学附属図書館)、「信士道旦」の項。
- 蟄居紀談(名古屋大学附属図書館)、「神蔵秘書」。
- 勢州梅香寺沙門寅載傳(『続日本高僧伝』3巻)、4~9行目。
著書
参考文献
- 松木素彦「龍煕近の国学」(『国学院雑誌』565号])1941年。[24]
- 久保田収「龍煕近とその思想」(『皇学館大学紀要』7号)1969年。[25]
- 三村清三郎『伊勢人物誌』(『三村竹清集七』昭和60年)1985。[26]
- 浅野晃「芭蕉と伊勢俳人 ─ 足代弘員・龍尚舎・路草久保倉右近 ─ 」(『皇学館大学紀要』2号)1964年。[27]
- 井上敏幸「『笈の小文』の問題点一、二」(『語文研究』44/45、1978年)。[28]
- 富山奏「伊勢の芭蕉俳跡(その二)」(『四天王寺女子大学紀要』4号、1971年)、富山奏『芭蕉と伊勢』桜楓社(1988)所収。
- 三田村鳶魚「黃檗仕入の龍尚舍」(『大日』259号、1941年11月)[29]、『三田村鴛魚全集』第20巻にも収録。
- 岡田米夫「伊勢講の組織と機能」(『岡田米夫先生神道論集』1981。)[30]
- 窪寺恭秀『伊勢御師と宇治山田の学問』弘文堂、2023年。