房暠
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若くして唐の宰相崔胤の家臣となった。のちに戦乱を避けるため、河中府の旅客となった。後唐の天成元年(926年)、李従珂が河中府に赴任すると、房暠は道路の脇に迎えて面会し、その軍門に仕えることを求めた。李従珂に可愛がられて、賓客をもてなす役目をつとめた。清泰元年(934年)4月に末帝(李従珂)が即位すると[1]、5月に房暠は宣徽北院使に任じられ[2]、検校司空を加えられ、左威衛大将軍を代行した[3]。清泰2年(935年)4月、左衛上将軍となり、宣徽南院使をつとめた[4]。9月、刑部尚書となり、枢密使をつとめた[5]。ときに薛文遇や劉延朗らが宮中で重用されて、房暠は宰相でありながら、その意見は十中三四ほどしか聞き入れられなかった。末帝の朝廷で大事が持ち上がるたびに、房暠は端明殿学士らと車座になって会議したが、その多くで首を垂れて眠っていた。後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、房暠は恩赦を受けて原職のまま任用された。左驍衛大将軍に任じられ、西都留守をつとめた[1]。天福4年(939年)、左驍衛大将軍として致仕した[6]。開運元年(944年)春、洛陽で死去した[1]。