劉延朗
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李従珂が河中府に駐屯したとき、延朗は鄆州馬歩軍都虞候となった。のちに李従珂の腹心となった。李従珂が鳳翔府に駐屯したとき、延朗は孔目吏に任じられた。応順元年(934年)、李従珂が起兵を計画すると、延朗は公私の衣食を管理して、その起兵を助けた。閔帝の軍が降伏すると、李従珂は洛陽に赴いたが、延朗の差配に欠けるところがなかったことから、延朗は賞賛された[1][3]。清泰元年(同年)4月、荘宅使となった[4]。5月、枢密副使に転じた[5]。清泰2年(935年)4月、宣徽北院使・枢密副使となった[6]。9月、宣徽南院使・枢密副使となった[7]。清泰3年(936年)11月、趙延寿が河東道南面行営招討使となると、延朗はその招討副使とされた[8]。閏11月29日(937年1月14日)、石敬瑭が洛陽に入ると、延朗は南山に隠れようとしたが、従者が数人しかいなかった。その私邸を過ぎると、「わたしはここに銭30万貫を蓄えているので、何人集められるか分からない」と邸を指さして嘆いた。ほどなく捕らえられて殺された[1][9]。