石敬瑭
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生涯
石敬瑭は幼少の頃に李嗣源(後唐の明宗)に認められ、その娘婿となった。同光4年(926年)の魏州兵変に際し、石敬瑭は李嗣源と共に開封に入り、その後洛陽を攻撃した。
明宗(李嗣源)が後唐皇帝に即位した後、石敬瑭は「保義軍節度使」、「宣武軍節度使」、「河東節度使」を歴任した。
その後、李従珂が後唐の4代皇帝に即位すると、李従珂は石敬瑭の勢力を疎んじるようになり、石敬瑭を「天平軍節度使」に左遷した。
その後、石敬瑭は国内の反乱に乗じ、契丹の勢力を頼って皇帝を自称した。そして、石敬瑭は「後晋」を建国した。(936年)
石敬瑭は、契丹の兵を用いて、後唐の都「洛陽」を大包囲し、天福元年(936年)に、後唐皇帝(李従珂)が焼身自殺して後唐は滅亡した。
石敬瑭は皇帝の即位後に燕雲十六州を契丹に献上して、毎年30万疋の絹を献上する盟約を結んだ。
自分より10歳年下の契丹の太宗(耶律堯骨)を「父皇帝」と称し、自らを「児皇帝」と称した。
石敬瑭は契丹に対して服従の姿勢を示して、自分の権力基盤を固めたのである。
しかし、こうした石敬瑭のやり方を巡って、契丹に不満を持つ安重栄や景延広らのグループと現状維持を続けてその間に後晋の国力の充実を図るべきとする桑維翰らのグループが後晋の国内で激しく対立した。
その後、河東節度使である劉知遠が吐谷渾の部族の投降を受け入れていた事実が発覚し、契丹はその情報の真意を確かめようと、石敬瑭に聞こうとした。そして、石敬瑭はしばしば契丹から厳しい問責を受けた。
天福7年(942年)、石敬瑭は憤死した。享年51。