ASジャミネイロ
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チーム名
歴史
アルビレックス新潟のJ1昇格に沸く2003年秋、アルビレックスのサポーターを中心とした草サッカー好きらが集まり結成。2004年から新潟県サッカーリーグ4部に登録。リーグ参戦初年度は大敗が続き1勝しかできず最下位であった。この成績をもって監督の篠崎徹は1シーズンで解任。翌2005年、クラブ発足時から部長、平成国際部長[2][3]を歴任してきた小野直樹が監督に就任した。リーグ最下位こそ脱したものの、わずか2勝に留まり責任を取る形で小野は辞任。
2006年は浅妻信がプレーイングマネージャーとして監督に就任。浅妻はトレーニングの改善や選手補強に手腕を発揮しチームを4位に躍進させる。以後、2007年は県リーグ4部Aで2位に入り3部Aに昇格。2008年には2部、2009年には1部へ昇格。2010年は県リーグ1部で優勝し、北信越サッカー県リーグ決勝大会(北信越チャレンジリーグ)に進出、2位の成績で北信越フットボールリーグへの昇格を果たした。しかし北信越の壁は高く、2011年はわずか2勝に終わり1年で降格となった。
2012年は開幕2戦を引き分けでスタートしたが、ポゼッションスタイルに新戦力も徐々にフィット。後半の失速・失点は相変わらずであったが、それをしのぐゲーム内容を見せ4連勝で首位に立つ。最終節はラストプレーでミスから失点し勝負弱さを露呈したが、得失点差で優勝を手にした。ただし、あまりに渋い優勝のため、祝勝会は中止になった。北信越チャレンジリーグでは2位となり、1年で北信越リーグ復帰を果たす。
結成10年目となった2013年はかねてからの課題であった好ゲーム中での連続失点癖を改善するべく、東京都国体選手の経験もあるGK勝部和気を補強。すると飛躍的に守備が強化され、同年の失点数はリーグ2位に改善。内容に結果がついてくる形でシーズンを戦い6勝2分6敗で4位となり、北信越リーグ2部に残留した。
元々、アルビレックスのサポーターが中心となって結成されたチームであるが、その後、現役を引退し、新潟に戻ってきた元アルビレックス選手が所属するなど、アルビレックス新潟とサポーターを結ぶ立ち位置を持つチームであると同時に、古町のカフェなど、それまでサッカーに全く興味のない人をも巻き込んだサブカルチャーの香り漂うチームである。所属選手も、元Jリーガーから元アルビレオ新潟、元野球部、市議会議員、芸人、アルビレックスのコールリーダーまで多種多彩。
戦績
リーグ戦
| 年度 | 所属 | 順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 差 | 監督 |
| 2004 | 新潟県4部A | 10位 | 4 | 10 | 1 | 1 | 8 | 篠崎徹 | |||
| 2005 | 新潟県4部B | 8位 | 8 | 9 | 2 | 2 | 5 | 14 | 14 | 0 | 小野直樹 |
| 2006 | 新潟県4部B | 4位 | 浅妻信 | ||||||||
| 2007 | 新潟県4部A | 2位 | |||||||||
| 2008 | 新潟県3部A | 優勝 | 21 | 9 | 7 | 0 | 2 | 22 | 17 | 5 | |
| 2009 | 新潟県2部 | 2位 | 22 | 9 | 7 | 1 | 1 | 33 | 9 | 24 | |
| 2010 | 新潟県1部 | 優勝 | 16 | 7 | 5 | 1 | 1 | 29 | 6 | 23 | |
| 2011 | 北信越2部 | 8位 | 7 | 14 | 2 | 1 | 11 | 15 | 45 | -30 | |
| 2012 | 新潟県1部 | 優勝 | 14 | 7 | 4 | 2 | 1 | 19 | 11 | 8 | |
| 2013 | 北信越2部 | 4位 | 20 | 14 | 6 | 2 | 6 | 27 | 22 | 5 | |
| 2014 | 3位 | 21 | 14 | 6 | 3 | 5 | 26 | 28 | -2 | ||
| 2015 | 5位 | 15 | 14 | 4 | 3 | 7 | 26 | 34 | -8 | ||
| 2016 | 5位 | 15 | 14 | 4 | 3 | 7 | 17 | 35 | -18 | ||
| 2017 | 7位 | 8 | 14 | 2 | 2 | 10 | 18 | 43 | -25 | ||
| 2018 | 新潟県1部 | 6位 | 10 | 9 | 3 | 1 | 5 | 22 | 28 | -6 | |
| 2019 | 3位 | 19 | 9 | 6 | 1 | 2 | 31 | 14 | 17 | ||
| 2020 | 優勝 | ||||||||||
| 2021 | 北信越2部 | 7位 | 14 | 14 | 4 | 2 | 8 | 24 | 30 | -6 | 浅妻信 |
| 2022 | 新潟県1部 | 優勝 | 9 | ||||||||
| 2023 | 北信越2部 | 7位 | 14 | 13 | 3 | 4 | 7 | 18 | 40 | -22 | 浅妻信 |
| 2024 | 新潟県1部 | 優勝 | 21 | 9 | 7 | 0 | 2 | 25 | 9 | 16 | |
| 2025 | 4位 | 15 | 9 | 4 | 3 | 2 | 19 | 10 | 9 | ||
全国クラブチームサッカー選手権大会
- 出場1回
| 回 | 年月日 | 時期 | 会場 | スコア | 対戦相手 |
| 17 | 2010年10月31日 | 2回戦 | アルビレッジ | 3-1 | 龍野FC (兵庫) |
| 2010年11月1日 | 準々決勝 | サンスポーツランドしばた | 0-2 | アンソメット岩手・八幡平 (岩手) |
タイトル
リーグ戦
- 新潟県サッカーリーグ1部:5回
- 2010年、2012年、2020年、2022年、2024年
所属選手・スタッフ
- 2024年
スタッフ
| 役職 | 名前 | 前職 | 備考 |
| 代表/監督 | ASジャミネイロ 選手 | ASジャミネイロ創設者 | |
| 監督代行 | 新潟蹴友会 選手 | ||
| '05加茂FC | 選手兼任 | ||
| コーチ | 新潟経営大学 | 選手兼任 |
選手
| Pos | No. | 選手名 | 前所属 | 備考 |
| GK | 12 | NIIGATA J.S.C | ||
| 15 | 立教大学 | |||
| DF | 2 | 新潟江南高校 | ||
| 5 | 新潟工業高校 | |||
| 14 | 新潟西高校 | |||
| 16 | 専修大学 | |||
| 18 | 新潟経営大学 | コーチ兼任 | ||
| 24 | 日本文理高校 | |||
| MF | 7 | '05加茂FC | 監督代行兼任 | |
| 10 | 新潟経営大学 | |||
| 13 | 新潟明訓高校 | |||
| 19 | 日本文理高校 | |||
| 21 | 専修大学 | |||
| 23 | 日本文理高校 | |||
| 25 | 拓殖大学 | |||
| 28 | 東京学館新潟高校 | |||
| 31 | 新潟経営大学 | |||
| 44 | '09経大FC | |||
| FW | 8 | 新潟経営大学 | ||
| 9 | 高志高校 | |||
| 17 | 東京学館新潟高校 | |||
| 22 | 新潟東高校 | |||
| 26 | 拓殖大学 | |||
| 30 | 巻高校 | |||
| 40 | 巻高校 | |||
| 46 | 新潟経営大学 | |||
歴代所属選手
ユニフォーム
ユニフォームサプライヤー
結成初年度に当たる2004年はオリジナルTシャツでの参戦であったが、秋口にようやくアスレタの1stユニフォームが届く。しかし県リーグ等の正規のリーグレギュレーションを理解しないまま作ったユニフォームであったため「緑と白のストライプ」という禁断のカラーであった[4]。
2008年よりセカンドユニを導入。横縞ストライプという当時としては珍しいデザインだが、このユニフォームは2005年まで県リーグ1部に所属していたFC JEROSのユニフォームを譲り受けたものであった。
2011年より諸問題をクリアすべくジャミネイログリーンの配色にチェンジ。
2014年はJOMAがユニフォームサプライヤーとなった。胸スポンサーは東京のプロモーション事務所である「エイヤード」が、背中スポンサーには「かるべ鍼灸接骨院」とフットサル専門店の「QUARTO」が入った。またチームエンブレムも刷新されている。
2025年現在はboneraを着用。

チームカラー
- ジャミネイログリーン
ユニフォームスポンサー
- BIRIBIRI BAR CHINOIS(ビリビリバー シノワ)
- 2025年現在の胸スポンサー
- かるべ鍼灸接骨院
- 院長の苅部俊男はジャミネイロのスポーツトレーナー兼メディカルスタッフでもある。少林寺拳法全国大会に三度出場。
- QUARTO
- フットサルショップ。店長の堀川貴康は法人化前のアルビレオ新潟に在籍し、ジャミネイロでもプレーした。フットサルチーム「cabella NIIGATA F3」をサポートしているがチームメンバー同士の交流が深い事もあり、サッカーチームとしてはASジャミネイロをサポートしている。
サポーター
チーム結成初年度よりウルトラJB[5]と呼ばれる熱狂的サポーターが応援に駆け付け、熱いサポートを送ってきた。JBとは「ジャミネイロ・ボーイ」の略。単数形である理由は「一人だから」とのこと。2010年北信越チャレンジリーグの最終戦では、ガラガラのバックスタンド芝生席を自由自在に走り回るなど、アウェイ長野の地で熱狂的なサポートを披露し地域リーグ昇格に導いた。なお、その試合でも単数であった。
エピソード
- 元々は、なんとなく格好いいという理由だけで、ジャミネイロの前に「AS」を付けた。「アフロスター・ジャミネイロ」で登録したのは、登録用紙にカナをふる必要があったためであくまで「洒落」であったが、代表が公式の場であまりにも多くの人に「アフロさん」と呼ばれるのを嫌って、「エイエス」を宣言した。
- 2004年、2005年のシーズンはジャミネイロに負けたチームはすべて翌年解散。「このチームに負けたら終わり」というある意味「デスノート」的なチームであった。実際、この年まで1勝するごとに大宴会を開いていたという。
- 初代監督の篠崎徹は、チーム名を決めるときの飲み会にたまたま同席していて、「選手じゃないけど黙っていると結構いい男だし」という理由だけで酒の力を借りた勢いで就任。その後東京に転勤になり初年度はわずか1試合、しかもベンチに入らず観客席でビールを飲みながら観戦という体たらく。ところがその試合が初年度唯一の勝利試合だったため、シーズン終了後実績を理由に続投を訴えたが、満場一致で解任された。
- 初年度はシーズン前に発注したユニフォームがなかなか届かず、結局、シーズンのほとんどをTシャツ[6]で戦った。雨の日のゲームは悲惨だった。
- 門戸を大きく開いたチームの象徴的なエピソードであるが、チーム創設時、一般応募で45歳の素人のアルビレックスサポーター[7]が入ってきた。4部リーグは交代が7人制だったため、とりあえずFWとして先発させ、ボールタッチしたら交代しようという配慮の下で試合出場を果たしたが、なかなかボールに触れず苦戦は明らかであった。そんな中、味方の絶妙なスルーパスが炸裂。ベンチから歓声が上がったが、その瞬間突如彼が姿を現し、そのボールをカット。あっという間にチャンスを潰した。その後、交代を命じられたが、スター選手のように両手を頭の上で叩きながら退場していった。
- 3部優勝を飾った2007年シーズンはシーズンイン直前の段階で正GKがアキレス腱損傷。控えキーパーがいなかったためGKはタニマチ会員[8]から選手に強制的に登録させられたパンサー会員であった。しかし会員改めパンサー選手はサッカー経験ゼロのど素人にもかかわらず全試合フル出場と2部リーグ昇格に貢献しシーズン終了後見事MVPに選ばれた。
- 北信越リーグでは惨敗する試合が多かった。しかし決して全てが通用していなかったわけではなく、チャンスメイクやボールポゼッションでは対戦相手とほぼ互角に渡り合うシーンも多くみられた。シーズン中盤以降は歯車が狂い始め、ひとたび失点するとわずか数分の間に2点3点と立て続けに失点する「ジャミネイロタイム」を連発。大量失点での負け試合が恒例となってしまった。