GAZ-55
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歴史
開発
労農赤軍は、GAZ-AAやZIS-5トラックの運用経験を通し、重傷者の後方搬送により適した車両を要求した。1938年には、ユーリ・ナウモヴィチ・ソロチキン主任設計者の指導のもと、GAZは特殊救急車の設計を完了した。車両は「GAZ-55」(ГАЗ-55)の名称を付けられ、正式化された[1]。
キャビン内には、ストレッチャーに横たわる4名と折りたたみ式座席に座る2名の計6名、もしくは吊り下げ式ストレッチャーに2名と折りたたみ式座席に5名の計7名を乗せることが可能であった。暖房用ヒーター、換気システムも設置され、後輪にはアーチ沿いにフランジ付きのフェンダーが取り付けられた。
量産と変遷
1938年にゴーリキー自動車組立工場(1940年にGAZのバス部門に編入)で量産が開始された。量産開始後すぐの1938年7月にはハサン湖における関東軍との戦いに投入された。
1941年6月、GAZ-55は必要定数の半分に満たない数しか配備されていないまま、大祖国戦争開戦を迎えた。
1942年には車両の設計が大幅に簡素化された。フロントフェンダーやリアマッドガードはGAZ-MM-Vに準じた仕様になり、1943年に製造されたGAZ-55ではヘッドライトが左側のみ搭載され、フロントブレーキは装着されなくなった。
大祖国戦争を通じて多くの負傷兵が戦場から病院へ搬送され、多くの命が救われた。GAZ-55は前線兵士の間で「前線救急車」(фронтовая неотложка)という愛称で呼ばれるようになった。
また、1輌のGAZ-55がドイツ空軍の部隊によって鹵獲されている[2]。
GAZ-55の生産は戦後まで続いたが、GAZにおける生産は1946年に終了した。この時までに9,130輌が生産された[3]。1946年から1950年にかけてはゴーリキーバス工場(GZA)で生産が続いたが、GAZ-51をベースとしたGZA-653救急車が登場し、徐々に置き換えられていった。
登場作品
- Фронтовые подруги(1941)
- Red Orchestra 2: Heroes of Stalingrad