H.B.ハリッキー

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別名義 トビー・ハリッキー
生年月日 (1940-10-18) 1940年10月18日
没年月日 (1989-08-20) 1989年8月20日(48歳没)
出生地 ニューヨーク州ダンカーク
H・B・ハリッキー
Henry Blight Halicki
別名義 トビー・ハリッキー
生年月日 (1940-10-18) 1940年10月18日
没年月日 (1989-08-20) 1989年8月20日(48歳没)
出生地 ニューヨーク州ダンカーク
死没地 ニューヨーク州トナワンダ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
民族 ポーランド系アメリカ人
身長 183cm
職業 起業家、映画監督、プロデューサー、俳優、スタントドライバー
配偶者 デニス・シャカリアン(1989)
公式サイト http://gonein60seconds.com/
主な作品
バニシングin60"
ジャンクマン
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H・B・ハリッキー(Henry Blight Halicki)はアメリカ合衆国の起業家、映画監督、俳優、スタントドライバー。トビー・ハリッキーと表記されることもある。1974年の「バニシングin60”」で有名になったが、1989年に続編を撮影中に事故死した。

幼少期〜独立

1940年10月18日、ニューヨーク州ダンカーク生まれ。両親はポーランド系アメリカ人で、13人兄弟の1人だった[1]。家族からはトビーの愛称で呼ばれ、これが生涯のニックネームとなる[2]。弟のロナルド・ハリッキーによると、食事の前になると母親がいつも「食べたい料理はすぐに食べなさい。60秒で無くなってしまうよ!(Gone in 60 seconds!)」と言っていたという[3]

子供のころから父親の自動車解体業を手伝っていたが、15歳のときに家を出て従兄で幼馴染のジョー・ブラジェヴィッチと一緒にロサンゼルスに移り住み[4]、ガソリンスタンドや自動車修理工場で働き始めた。21歳でロサンゼルス郡ガーデナにあったスチュードベーカーのディーラー跡地を買い取り「HB Halicki Mercantile Co. & Junk Yard」を開業し、事故車や警察の押収車両、使い終えたパトカーなどを収集し始めた[5]。中古パトカーや古い車の部品は需要が多く、ハリッキーのジャンクヤードはすぐに有名になった[6]

1968年、ロサンゼルスとサンフランシスコの国際空港で多発する自動車窃盗事件への関与の疑いで起訴された。廃車のVINプレートやキーシリンダーを自動車窃盗グループに提供していると疑われたのである。起訴はすぐに取り消されたが、このとき得た知識が後の映画作りに活かされることになる[7]

映画界への進出

映画への関心が高かったハリッキーは、1973年の"Love Me Deadry" にスタントドライバー兼俳優として出演した。これがきっかけで車映画の創作意欲をかき立てられ、製作・監督・主演・スタントドライバーを兼任する「バニシングin60”」(1974)を発表した。素人同然のため評論家の評価は散々だったが、1974年の話題作の一つとなり製作費15万ドル(現在の110万ドル)に対し興行収入4,000万ドル(現在の2億9千万ドル)を記録[8]。1970年代に最も成功したインディーズ映画となった。

ハリッキーはこの収益でアンティークや自動車関連のグッズなどを収集し始めた。広大なジャンクヤードにサッカーが出来るほどの大きな倉庫を建て、内部は西部劇に出てくる酒場のような温かみのあるインテリアに仕立てて、自動車関係のパーツやグッズ、ペダルカーやトイカー、オートバイ、骨董品の銃などを展示した。その数は10万点に及んだと言われており[9]、これらを販売して得られる収入は映画を上回ったという。

次作の「ジャンクマン」(1982)は150台以上の車を破壊して再び話題になった[10]。翌年の1983年、アメリカで最も成功した酪農家と言われるデモス・シャカリアンの娘のデニス・シャカリアンと交際を始めた。

結婚〜事故死

デニスとは6年間の交際の末に1989年5月に結婚した。式は故郷のダンカークにある、国家歴史登録財にも登録されているウィリアム・ウェルズ邸が選ばれ、実兄のルドルフ・ハリッキー判事が宣誓を執り行った[要出典]

新婚旅行から戻るとすぐ「バニシングin60”」の続編となる『Gone in 60 Seconds 2』の製作を開始した。撮影はダンカークを含むニューヨーク州バッファロー近辺で行われた。大好きな生まれ故郷に出来るだけ多くの製作費を落とそうという恩返しのつもりだったが、市当局は安全性を懸念して800万ドルの保険への加入と保証金1万ドルの支払いを命じた[7]。2ヶ月後にようやく許可が下りたとき、ハリッキーは「撮影が終わったら町を告訴してやる」と怒りを露わにしたという。

1989年8月20日、バッファロー近郊のトナワンダの工場跡地で大掛りなカースタントの撮影が行われた。その中で高さ45mの給水塔に大型トラックがぶつかって倒れるシーンが用意されていた。実際には給水塔の4本脚のうち1本を切断しておき2台のブルドーザーでワイヤーを引っ張って倒す計画だったのだが、撮影が始まる直前に給水塔が重さに耐え切れず傾き始めた[11]。そのときハリッキーは給水塔から20mほど離れた場所にいたが、弾け飛んだワイヤーが木製の電柱をなぎ倒してハリッキーに直撃し、即死した[12]

死後

ハリッキーの死後、デニスは夫が残した知的財産を法的に保護するため商標登録を出願し、1994年に裁判所は正式に認めた。多額の弁護費用は夫のコレクションを売って捻出した。

1995年、「バニシングin60”」がハリウッド・ピクチャーズによってリメイクされることになり、デニスはエグゼクティブプロデューサーとして映画製作に携わった。監督のドミニク・セナは、ハリウッドにやって来て最初に受けた仕事が「ジャンクマン」(1982)の撮影スタッフだったという[13]

リメイク版の「60セカンズ」(2000)が公開されると、カーデザイナーのキャロル・シェルビーは映画に登場する1967年型フォード・マスタングGT500”エレノア”を現行型マスタングGT500で再現した「GT500-E」を販売し始めた。デニスは著作権の侵害だとしてシェルビーと販売店を訴えた。一度は和解したものの、シェルビーはクラシック・リクリエーションズと提携して”エレノア”とよく似た1967年型の「GT-500CR」を販売し[14]、再び裁判で争うことになる。しかし第9巡回区控訴裁判所の見解は『車は単なる映画の小道具で著作権は認められない』という結論に至り、2022年にデニスの主張を退けた[15]

2003年、DVD作品の”The Life and Times of H.B. Halicki “ がリリースされ、その中で「Gone in 60 seconds 2」の未公開フィルムをつなぎ合わせた34分の短編映画が収録された。ストーリーやハリッキーの出演シーンは無く、前半は暴走する大型トレーラーと給水塔の倒壊、後半は”slicer”という特殊な形状の装甲車がパトカーを破壊していく映像の2部構成となっている。このスライサー”Slicer”は兄のロナルドが命名し、ロナルドの甥のデニス・クゾスが設計・製作したものだった[3]

"エレノア" の製造ライセンスは2019年にオクラホマ州タルサにあるBNMC(Brand New Muscle Car)に公式に認可されており、リメイク版の1967年型マスタングベースのエレノアレプリカを製作している[16]

フィルモグラフィ

脚注

外部リンク

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