U559 (潜水艦)
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U-559は第二次世界大戦中にナチス・ドイツ海軍で建造されたVIIC型Uボートである。
| U-559 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 建造所 | ブローム・ウント・フォス、ハンブルク |
| 運用者 |
|
| 艦種 | 潜水艦 |
| 級名 | UボートVIIC型 |
| 艦歴 | |
| 発注 | 1939年10月16日 |
| 起工 | 1940年2月1日 |
| 進水 | 1941年1月8日 |
| 就役 | 1941年2月27日 |
| 最期 | 1942年10月30日、爆雷により沈没[1] |
| 要目 | |
| 基準排水量 | 769t |
| 水中排水量 | 871t |
| 全長 | 67.1m(耐圧殻50.5m) |
| 最大幅 | 6.2m(耐圧殻4.7m) |
| 吃水 | 4.74m |
| 高さ | 9.6m |
| 主機 | ディーゼルエンジン2基 |
| 電源 | 電動モーター |
| 電力 | 750PS |
| 出力 | 2800 - 3200PS |
| 推進 | 2軸 |
| 速力 | 水上17.7ノット、水中7.6ノット |
| 航続距離 | 8500海里(水上10ノット)、80海里(潜航4ノット) |
| 潜航深度 | 230m、圧壊深度250 - 295m |
| 乗員 | 将校4名、下士官40–56名 |
| 兵装 |
533mm魚雷発射管(前方4門、後方1門)、魚雷14またはTMA機雷26 8.8 cm SK C/35 艦載砲 1門 2cmC/30対空火器 |
1940年2月1日にハンブルクにあるブローム・ウント・フォス社「Baunummer535」(建造番号535)として起工され、U-559は1941年1月8日に進水し、2月27日にハンス・ハイトマン大尉の指揮下で就役した。
U-559は第1潜水隊群で活動を開始し、1941年6月1日に作戦行動を開始する前に訓練を行った。1942年4月25日、U-559は第29潜水隊群に移籍した。U-559は5隻の船を撃沈したが、1942年に地中海での沈没中にイギリス水兵が暗号機を押収した出来事で知られる。これはUボートのエニグマ暗号の解読において非常に重要な出来事であった。
艦歴
U-559はもともと大西洋のウェスタンアプローチで連合国の船団に対する作戦行動に従事する予定であった。
第1、2哨戒
1941年6月4日、U-559はキールを出港して第1哨戒を開始し、北海を横断してグリーンランドとアイスランドの間の隙間を通過した。7月5日、U-559は占領中のフランスにあるサン・ナゼールに到着した。
U-559は2回目の出撃でウェサン島の西約600海里(1,100km、690マイル)でアルヴァに雷撃を行い撃沈して成功を収めた。1941年8月22日、U-559はフランスの基地に帰還した。
第3哨戒
9月20日、U-559は第3哨戒を開始し、第二次世界大戦で初めて厳重に防衛されたジブラルタル海峡を通過して地中海に侵入したUボート部隊である「ゲーベン」部隊に配属された。U-559はリビアとエジプトの国境を調査した後、ギリシャのサラミスに到着した。
第4哨戒
U-559は第4哨戒でリビア沖でオーストラリアのスループのパラマタに雷撃を行い撃沈した。生存者のほとんどは他の船に救助されたが、男性3名は陸地に辿り着き、前進中のイギリス軍中隊に救助された[2]。
第5、6、7哨戒
1941年12月8日に第5哨戒を開始し、23日にU-559は順天(シュンティエン)を撃沈した。順天は850~1,100名ドイツとイタリアの戦争捕虜を輸送していた。少なくとも700名の戦争捕虜を含む800から1000名が死亡した[3]。
U-559は第6、7哨戒で両方ともサラミスからリビアまでの海域を移動した。どちらも戦果はなかった。
第8、9哨戒
1942年3月、クロアチアのプーラへ移動し、U-559は5月19日に出撃し、6月10日に船団を攻撃してタンカーのアテナを撃沈し、給油船ブランブリーリーフに損傷を与えた。
しかし、第9哨戒は成功しなかった。
ウルフパック
U-559は1つのウルフパック、ゲーベンに参加した。(1941年9月20日~10月5日)
最後
U-559はその最期で有名である。1942年10月30日05時頃、U-559はイギリス空軍第201飛行隊に所属するサンダーランドのW機にナイル川デルタの北70マイル、北緯31度47分 東経33度24分の位置で発見された。駆逐艦ヒーローは既に無線で通報を受けて迎撃に向かう一方で、ペタード、パケナム、ダルヴァートン、ハーワースはエジプトのポートサイドを出航した。12時34分頃、第47飛行隊に所属するウェルズレイ哨戒機のF機は潜航したU-559の潜望鏡を発見し、爆雷で攻撃した[4][5][6]。
駆逐艦一行は絶えず爆雷攻撃をしながら、16時間にわたりU-559を捜索した。暗くなった後、U-559は耐圧殻にひびが入り、水平姿勢を維持できず、乗組員4名が爆発と浸水で死亡したため、浮上を余儀なくされた。U-559はペタードの付近に浮上し、直ちにエリコン20mm機関砲で射撃を行った[7]。
ドイツ人乗組員は暗号書やエニグマ暗号機を破壊せず、致命的なことに適切な自沈に必要なすべての海水注入口を開け忘れ、急いで船外へよじ登った。イギリス海軍のアンソニー・ファッソン中尉、コリン・グレイザー一等兵、NAAFI官営売店の補助員トミー・ブラウンの水兵3名は放棄された潜水艦に乗り込んだ。この3名のイギリス人男性がU-559にどうやって乗り込んだかは諸説ある。いくつかの報告(カーンの記述など)によると、彼らはゆっくり沈没中のU-559まで「裸で泳いだ」と書かれている[8]。セバッグ=モンテフィオーレは彼らはペタードから飛び込んだが、ブラウンは救助艇から飛び込んだと述べている。彼らは現在のエニグマのネットワークの設定が書かれたU-559のキー設定表を回収した。海から救助された2名のドイツ人乗組員はこの資料がペタードの救助艇に移動するところを目撃したが、武装した警備員に干渉を止められた。グレイザーとファッソンはU-559の中で脱出を試みたが、沈没と共に溺死した[9]。
その後
グレイザーとファッソンは死後、ジョージ・クロスを授与され、ブラウンにはジョージ・メダルが授与された。ヴィクトリア十字章も検討されたが、表向きの理由では彼らの勇気は「敵との対峙」ではなかったため授与されなかった[10]。別の考えでは、ヴィクトリア十字章でドイツの情報機関がUボートの捕獲に注目することを望まなかったからとされている。また、ブラウンは入隊するために年齢を偽っており、たった16才であることが判明し、これによってジョージ・メダル受章者で最も若い一人となった。彼は船から降りた後、故郷のノース・シールズに戻り、わずか2年後に家の火事から妹の救出を試みて死亡した[11]。
彼らが回収した暗号書はナチス・ドイツ海軍が1942年初頭に導入した4ローターのUボート用エニグマを10か月間解読できていなかったブレッチリー・パークの暗号解読班にとって非常に価値があった。この回収した資料により、数週間で解読ができ、終戦までにUボート用エニグマの完全な解読が可能となった。
この回収は2000年の映画U-571で潜水艦を捕獲する描写に影響を与えた。この映画はU-110の捕獲にも影響されている。