アオハン部
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『欽定外藩蒙古回部王公表伝』によると、ダヤン・ハーンの長子トロ・ボラト(図嚕博羅特)にはボディ・アラク・ハーン(博第阿喇克)とエルミグ(納密克)の二子があり、エルミグの息子ボイマ・トシェート(貝瑪土謝図)よりアオハン部とナイマン部が生じたとされる。ほぼ同時期に、ボディ・アラク・ハーンの息子たちからホーチト・ウジュムチン・スニト諸部が、ボイマの長子アイダビシュ・タイジよりアラクチュートが興っており、これらの諸部はボディ・アラク・ハーンの晩年に分封が行われ成立したのではないかと見られる。一方で、史料上ではアオハンとナイマンは一纏めに扱われることが多いため、アオハンとナイマンで一つの遊牧集団を形成していたものとする見解もある[1]。
ボイマにはトゥジン・ドラルとエセン・ウイジェン・ノヤンという二人の息子がおり、前者の子孫がアオハン部を、後者の子孫がナイマン部を、それぞれ支配した[2]。トゥジン・ドラルの息子ダイチン・ドゥレンは明側の漢文史村にも散見し、『遼夷略』では5千の兵を率いたとされ、『明実録』では互市を行ってい酋長として名が挙げられている[2]。1622年(天啓2年/天命7年)にはダイチン・ドゥレンが義州へ出兵する事件があり、これ以後アオハン・ナイマンと後金国との折衝が始まる。同年4月に後金国のヌルハチがダイチン・ドゥレンに宛てて贈った書館の内容が伝わっているが、その内容はアオハン部にとって宗家に当たるリンダン・ハーンの行動を批判するものであった[2]このころ、リンダン・ハーンとヌルハチは断交状態にあり、後金国側はアオハン部をリンダン・ハーンに対する交渉口として利用しようとしていたものとみられる[3]。
1626年(天啓6年/天命11年)にはヌルハチが死去してホンタイジが跡を継ぎ、1627年(天啓7年/天聡元年)2月にホンタイジはナイマン部に対してアオハン部と共同で使者を派遣するよう書を贈った[4]。そこで、ナイマンのフン・バートルと、ダイチン・ドゥレンの息子であるソノム・ドゥレンとセチェン・ジョリクトは要求通り使者を派遣し、これに対してホンタイジはリンダン・ハーンとの講和条件を提示した[4]。以上の経緯により、ホンタイジはヌルハチ時代と同様にリンダン・ハーンとの交渉の調停役として引き続きアオハン・ナイマンを重視していたようである[5]。ホンタイジとリンダン・ハーンの関係は改善されなかったが、フン・バートルとソノム・ドゥレンの両名は同年7月5日に後金国に帰順するに至った[5]。この時、ホンタイジは対明遠征中であったが、陣営の外までアオハン・ナイマンを出迎え、宴席では右側にナイマンのフン・バートル、左側にアオハンのソノム・ドゥレンをおいて厚遇を示した[5]。翌日には清朝とアオハン・ナイマンとの間で盟約が行われ、この時モンゴル側の諸王族で筆頭として名を挙げられていたのはソノム・ドゥレンであった[5]。
同年12月26日にはソノム・ドゥレンらモンゴル系諸王はホンタイジに招かれて瀋陽に赴き、そこでソノム・ドゥレンはホンコシ公主を娶った[6]。さらに、1628年(崇禎元年/天聡2年)4月にはソノム・ドゥレンの帰順の功績を讃えてジノンの称号が贈られ、これ以後ジノン・エフとも呼ばれるようになる[6]。同年9月にはチャハルを討つための遠征軍にソノム・ドゥレンらが合流し、以後チャハルおよび明朝との戦闘に連年アオハン部は動員される[7]。一方、1631年(崇禎4年/天聡5年)からはソノム・ドゥレンの甥バンディがアオハン軍を率いる人物として多く言及されるようになり、またバンディも清朝宗室と婚姻関係を結ぶようになった[8]。しかし1635年(崇禎8年/天聡9年)9月、ダイシャンの失脚に連座してソノム・ドゥレンとその妻の見らも財産・領地を没収されてしまった[9]。ソノム・ドゥレンは早くに自首したことで極刑を免れ、後には朝鮮出兵などで功績を残したが、アオハンの嫡流は甥のバンディの血統に移った[10]。崇德元年1636年(崇徳元年)にはアオハン部は旗に編成され、以後中華民国期・満洲国期を経て現在の中華人民共和国内モンゴル自治区赤峰市に属する敖漢旗に至っている。
脚注
参考資料
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年10月。ISBN 978-4887082434。
- 森川哲雄「チャハル・八オトクとその分封について」『東洋学報』第58巻、東洋文庫、1976年12月、127-162頁、CRID 1050282813819751424、ISSN 03869067、NAID 120006516176。
- 関根知良「清朝・ホンタイジの対アオハン゠モンゴル政策」『社会文化史学』第59巻、社会文化史学会、2016年3月、33-54頁、CRID 1390290699837250432、ISSN 03869296、NAID 40020894060。
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。