ボディ (チャハル)
モンゴル帝国のハーン
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生涯
出自
1504年、ダヤン・ハーンの長男のトロ・ボラトとチャージャン・ハトンのあいだの子に生まれる(ウルス・ボラトの長男とする説あり)[2]。
1508年、叔父(または父)であるウルス・ボラトが右翼のイブラヒム太師らによって殺されると、ダヤン・ハーンは左翼を率いてその報復をし、右翼三トゥメンをことごとく降した[2]。ダヤン・ハーンは有功の士に賞賜した際、ボディ・アラクに「わが帝位を守るがよい」と仰せになり、ボディ・アラクは帝位継承を約束された[2]。
バルス・ボラトによる簒奪

1516年または1517年[注釈 1]、祖父のダヤン・ハーンが崩御したが、長男であるトロ・ボラト、次男であるウルス・ボラトがすでに亡くなっていたため、三男であるバルス・ボラト(サイン・アラク・ジノン)は、ボディ・アラクが世継ぎに指名されていたにもかかわらず、まだ「小さい」と言って自ら帝位についた[2]。
しかし、ボディ・アラクはすぐに左翼の三トゥメンを率いてバルス・ボラトに譲位を迫り、激しい言葉で叱責した。これにバルス・ボラトは自らの過ちを認め、ボディ・アラクに跪拝して帝位を譲った[2]。ボディ・アラクはあらためて八白室(ナイマン・チャガン・ゲル:チンギス・カン廟)に跪拝して帝位につき、ボディ・アラク・ハーンとなったという[2]。以上の逸話は『アルタン・トプチ』に伝えられるものであるが、『蒙古源流』にはこの逸話は記されない[3]。これは、『蒙古源流』の著者サガン・セチェンがバルス・ボラトの子孫であり、先祖の汚点を隠そうとしたためではないかと考えられている[4][3]。
また、漢文史料の『皇明北虜考』や『万暦武功録』にも同様の逸話が記されており、[5]、阿著(Aǰu=バルス・ボラト)がまだ幼い卜赤(ボディ)に代わって小王子(大ハーン)を称したとされる[6][7]。ただし、これらの漢文史料では「阿著=バルス・ボラトが死んだ後に」卜赤=ボディが即位したと明記されており、上記「バルス・ボラトは叱責されてボディ・アラクに帝位を譲った」というのも史実ではないと考えられている[7]。また、バルス・ボラトの長男のグン・ビリクはこの頃左翼方面にも勢力を伸ばそうとしていた痕跡があり、或いは「ボディが叱責し誤りを認めた」のはグン・ビリクではないかとする説もある[8]。
その後、ボディ・アラク・ハーンはホルチン部のバートル・モロジャイと協議して、右翼三トゥメンを解体し併合しようと考え、右翼三トゥメンに向かって出陣しようとしていた[9]。そこへ母であるチャージャン・ハトンが「祖父(ダヤン・ハーン)が築いた大政を破るのですか」と諫めたため、ボディ・アラク・ハーンは右翼侵攻を取りやめたいう[9]。なお、この時チャージャンはグン・ビリクとアルタンの諸子(ブヤングリ、センゲ、ノムタルニ、ホトクタイら)の優秀さを挙げ、右翼討伐の無益さを説いたとされるが、ここで挙げられるのは年代的に生まれていないか幼児であった者ばかりである[10]。ボディ・アラク・ハーンが右翼討伐を諦めた最大の理由は、チャージャンの言葉の最後にある「(右翼を)もしも滅ぼそうと計画して、できればもちろんよろしいが、できなければ、他の二つの国人を同時に滅ぼすのではありませんか」という点にあり、左翼がバルス・ボラト家を中心に団結していたのに対し、左翼はまとまりにかけていたことが、右翼討伐が実施されなかった本来の理由であろう[11]。
ウリヤンハンの討伐

即位後のボディ・アラク・ハーンの事蹟として各種史料で特筆されるのは、「ダヤン・ハーンの六トゥメン」の一つであったウリヤンハン・トゥメンの討伐である。ウリヤンハン・トゥメン討伐の経過については史料間で差異があるが[注釈 2]、『アルタン・ハーン伝』に基づくと1524年から1538年にかけて数度にわたって行われたようである[12]。もともと、ウリヤンハン・トゥメンはダヤン・ハーンと姻戚関係を結んでいたが、ウリヤンハンと深い関係を持たないボディが即位したことで動揺し、叛乱を起こすに至ったものと考えられている[13]。
ウリヤンハンの討伐については漢文史料の『訳語』にも言及があり、「蒙古にはもと誕詐無し。今はまた然らず。小王子(ボディ・アラク・ハーン)・把都児(バートル)・納林台吉(ナリン・タイジ)・成台吉(チン・タイジ)・恤剌台吉(シラ・タイジ)・俺答(アルタン)・己寧(ジノン)の諸酋の兵を集め、西北の兀良哈(ウリヤンハン)を掠め、殺傷して殆ど尽く。……」と記される[14]。『蒙古源流』は一連の戦役を左翼諸軍を率いたダヤン・ハーンと右翼諸軍を率いたバルス・ボラトによって主導されたものとするが、実際には一世代後の左翼のボディ・アラク・ハーンと右翼のメルゲン・ジノンが主導したようである。
『アルタン・ハーン伝』によると、1538年にウリヤンハンの討伐が完了した後に、遠征を主導したボディ、グン・ビリク、アルタンの三名はそれぞれ「コデン・ハーン」「メルゲン・ジノン」「ソート」という称号をそれぞれ称するようになったという[15]。この記述の解釈については諸説あるが、後にハーンやジノンを凌ぐ権勢を築くアルタンが、この時点ではまだ両者の下位にあったことは事実のようである[16]。
ウリヤンハンの討伐が完了し、その民は討伐に参加した諸部によって分割されたが、最も大きな利を得たのはハルハ・トゥメンであった。そもそも、『アルタン・ハーン伝』はウリヤンハン討伐が起こった切っ掛けを「ウリヤンハンが(ハルハに属する)ベストのオリンデイという名の者を殺した」ことにあると記しており、一連の戦役の原因の一つにハルハとウリヤンハンの不和があった。ヘンティー山脈一帯を支配したウリヤンハンが解体されたことでハルハはモンゴル高原の中央部に進出することができるようになり、やがて現在のモンゴル国の大部分に広がるに至った[17]。
晩年
1540年代にはトゥメト部を支配するアルタンの勢力がさらに増大しており、1541年(嘉靖20年)にはアルタンの主導によって明朝への求貢(朝貢の要求)が行われた[18]。この時、ボディ・アラク・ハーンはアルタンが派遣した使者の帰還が遅いことを理由に、配下を率いて長城まで南下し明朝を威嚇したとされ[19]、アルタンとは協力関係にあったことが分かる[18]。しかしこの求貢は拒否されたため、1542年(嘉靖21年)にアルタンは再び明朝に使者を派遣したが、明朝に至った使者は「虜酋の小王子(ボディ・アラク・ハーン)ら九部はみな青山(現在のシリンゴル盟)で遊牧している……一度求貢が断られても三度請願を繰り返す。しかし三度目が断られるならば、三十万の配下を率いて南下するだろう」と語ったという[20][18]。
さらに、1542年(嘉靖21年)にはアルタンの兄のメルゲン・ジノンが死去し、アルタンはジノンの息子のノヤンダラ・ジノンを抑え、右翼で最大の実力者となった[21]。この翌年より、アルタンはウイグド(ヨンシエブ)のブルハイに対する遠征を実行し、この功績を讃えて1544年(嘉靖23年)ころにボディ・アラク・ハーンを始めとする「六トゥメン」の諸侯がアルタンに「トシェート・セチェン・ハーン(tüsiyetü sečen qaγan)」の称号を与えたとされる[22]。
このような情勢下で、1547年(嘉靖26年)には「俺答(アルタン)・保只王子(ボディ)・吉嚢台吉(ジノン)・把都台吉(バイスハル)ら四大頭目」が集結し、再び明朝に求貢することを決めたとの記事がある[23][24]。この時もアルタンが「四大頭目」の協議の主導を取っており、既に当時のモンゴルにおける最大の実力者となっていたことが窺える[25]。
諸モンゴル年代記によると、同じ丁未の年(1547年)にボディ・アラク・ハーンは44歳で崩御したとされる[2]。翌年(1548年)、長男のダライスン太子が八白室の神前でハーンとなった[2]。
諸子・諸甥への分封
清代に編纂された『欽定外藩蒙古回部王公表伝』によると、ボディ・アラク・ハーンの長男でハーン位を継承したダライスン・ゴデン・ハーン(庫登汗)より「ホーチト(浩斉特)」が、次男のココチュテイ・メルゲン(庫克斉図墨爾根台吉)より「スニト(蘇尼特)」が、三男のオンゴン・ドゥラル(翁袞都剌爾)より「ウジュムチン(烏珠穆沁)」が、それぞれ生じたとされる[26]。
また、同じく『欽定外藩蒙古回部王公表伝』ではボディ・アラク・ハーンの弟のエルミグ(納密克)の次男のボイマ・トシェート(貝瑪土謝図)よりアオハン(敖漢)とナイマン(奈曼)が生じたとされ、同じことをモンゴル年代記の『ガンガイン・ウルスハル』はエルミグが「アオハン・ナイマン・アラクチュートのダルガとなった」と表現する[27]。アラクチュートは清朝と対立して滅ぼされたため、詳細な記録がないが、エルミグの長男のアイダビシュ・タイジの家系によって支配されたことが分かっている[27]。
以上の記録から、モンゴル史研究者のブヤンデルゲルは、ボディ・アラク・ハーンの晩年に諸子・諸甥への分封が行われ、この頃よりホーチト・スニト・ウジュムチン・アオハン・ナイマン・アラクチュートの諸部が起こったものと推定する。そして、これ以前にダヤン・ハーンより分封を受けていたオチル・ボラト家のヘシグテンとゲレ・ボラト家のウルウトを加え、「八オトク・チャハル」が形成されたのだと論じている。
ボディ・アラク・ハーンの分封によって生じた六部は、アラクチュートを除いて全て清朝に降り旗(ホショー)に編成された。これらの旗は、ヘシグテン旗・アオハン旗・ナイマン旗・西ウジムチン旗・東ウジムチン旗・ソニド左旗・ソニド右旗として、現在も中華人民共和国の行政区画に名を留めている。
子
- ダライスン・ゴデン・ハーン
- ココチュテイ - スニト部の始祖
- オンゴン・ドゥラル - ウジュムチン部の始祖