アラクチュート
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「駁馬」集団
「アラクチュート」の名は、「駁馬(まだら色の馬)」を意味するテュルク諸語のhala-yundluγ、これに対応するモンゴル諸語のalaγ-aduγutuに由来するものと考えられている。「駁馬」を意味する名称を持つ遊牧集団は紀元前から存在し、『後漢書』巻12盧芳伝に見える「駁馬少伯」、『晋書』匈奴列伝の「賀賴種」、『通典』巻200の「駮馬国」などが相当する[2]。特に、唐代の「駮馬国」はマフムード・カーシュガリーの著書『テュルク語集成』で「ūlā yundlugh(=hala-yundluγ)」と記される集団に相当することが明らかにされている[3]。
モンゴル帝国時代には、シベリアのアンガラ川付近に同じく「駁馬」に由来する名称を持つ集団がいたとの記録がある[3]。
この河(アンガラ川)は、その近くに湖がある地方を流れており、(そこでは)すべてが銀(といえるほど銀があふれていた)。その地方の名はダラーバト(Darabat)・アラーフジーン(Alafjin)・アードゥーターン(Adutan)・マンクー(Mankku)・バラウールナーン(Balaurunan)である。また、次のように言われている。彼等の馬はすべて赤茶(ala)であり、どの馬も四歳駱駝のように肥えている。 — ラシードゥッディーン、『集史』タタル部族誌[4]
ここで挙げられるAlafjin・Adutanは恐らく「アラクチン・アドゥータン(alaγčin aduγutan)」の転訛で、17世紀末に編纂された『アルタン・トプチ』には実際にalaγčin aduγutanという表現が見られる[3]。
主に北元時代に散見する「アラクチュート(Alaγčuγud)」の名称は、「alaγčin aduγutan」から派生したものと考えられている。アラクチュートに関する最も早い記録としては、「アラクチュートのチャガン」なる人物をタイスン・ハーンが弟のアクバルジ・ジノンから奪ったことが、兄弟不和の原因となったとの逸話が知られている[5]。
ウリヤンハンのオトク
時代は降って15世紀半ば、オイラトのトゴン・エセン父子はモンゴル高原を再統一したが、この時ウリヤンハンのチャブダンなる人物がオイラトに降っている。このチャブダンの子孫にモロチ(Moloci)・アルチュフタイ(Alčuqutai)・アロリ(Aluri)らがおり、チャハル部を統べるボディ・アラク・ハーンやホルチン部の討伐を受けることとなった。『アルタン・トプチ』によると、敗れて捕虜となったアルチュフタイは自らの敗因を「アラクチュート(Alaγčuγud)が団結できなかったためである」と述べたとされる。これによって、チャブダンの一族は、ウリヤンハン万戸に属する「アラクチュート」と呼ばれる勢力であったと考えられている。
チャハルのオトク
ウリヤンハンを滅ぼしたボディ・アラク・ハーンは晩年に自らの勢力を諸子・諸甥に分封し、このころより「八オトク・チャハル」を構成するホーチト・スニト・ウジュムチン・アオハン・ナイマン・アラクチュート等の諸部が新たに興った。漢文史料の『北虜世系』によると、ボディ・アラク・ハーン(不地台吉)の弟にエルミグ・タイジ(也密力台吉/Elmig tayiǰi)という人物がいたとされ、『ガンガイン・ウルスハル』によるとエルミグは「アオハン・ナイマン・アラクチュトのダルガとなった」という[6]。なお、エルミグ・タイジより派生した「アオハン」「ナイマン」「アラクチュート」は「八オトク・チャハル」の中で、「山陽(大興安嶺の南側)の四オトク」を構成していたとされる[7]。
同じく『北虜世系』によると、エルミグの息子にアイダビシュ・タイジ(挨大筆失台吉/Ayidabiš tayiǰi)がおり、更にその息子がナムダイ・ホンタイジ(那木台黄台吉/Namutai gong tayiǰi)であった[8]。『登壇必究』巻23にもモンゴルの領侯の家系が記されているが、その中で「我力命那言(Elmig noyan)」の次子を「哈剌処台吉」としており、この人物こそ『北虜世系』のアイダビシュ・タイジに相当する[8]。「哈剌処」はアラクチュートの漢字転写であり、アイダビシュ・タイジ=哈剌処台吉がアラクチュートを支配していたことが分かる[8]。「ナムタイ(Namutai)」はチャハル部領主のトゥメン・ジャサクト・ハーンと同時代人で、『蒙古源流』では「トゥメン・ジャサクト・ハーンの五大執政」の一人として名を挙げられている[8][9]。
しかし、同時期に東方ではヌルハチの建国した後金国が興隆しており、アラクチュートは『満文老檔』などの満州語史料で「CaharのAlakcot国」として言及されるようになる[1]。アラクチュートは後金国と敵対関係にあり、1628年(天聡2年)に数度にわたる攻撃を受け、壊滅してしまった[1]。このため、清朝に降った他のチャハル系諸部(ホーチト・スニト・ウジュムチン・アオハン・ナイマン)に豊富な記録が残るのに対し、アラクチュートについては断片的な記録しかなく、支配者一族の系譜についても漢文史料でしか確認することができない[1]。
脚注
参考資料
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年10月。ISBN 978-4887082434。
- 森川哲雄「チャハル・八オトクとその分封について」『東洋学報』第58巻、東洋文庫、1976年12月、127-162頁、CRID 1050282813819751424、ISSN 03869067、NAID 120006516176。
- 安木新一郎「「森の民」に関する覚書 ―モンゴル帝国支配下のシベリア―」『函館大学論究』第52巻、函館大学、2020年10月、11-32頁、CRID 1390290699837250432、ISSN 02866137、NAID 120006896505。
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- 宝音徳力根・包文勝「“駮馬一賀蘭部”的歴史与賀蘭山名称起源及相関史地問題」『中国歴史地理論叢』第32巻第3輯、2017年7月