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アクバル (ムガル皇子)

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アクバル
Akbar
ムガル帝国皇子

全名 ムハンマド・アクバル
出生 1657年9月11日
アウランガーバード
死去 1706年3月31日
マシュハド
埋葬 マシュハド
子女 ネクシヤル
ほか4人の息子と6人の息子
父親 アウラングゼーブ
母親 ディルラース・バーヌー・ベーグム
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アクバル(Akbar, 1657年9月11日 - 1706年3月31日)は、北インド、ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブの四男。母はディルラース・バーヌー・ベーグム。しばしば全名のムハンマド・アクバル(Muhammad Akbar)で呼ばれる。

1657年9月11日、ムガル帝国の皇帝(まだ皇帝ではない)アウラングゼーブとその妃ディルラース・バーヌー・ベーグムとの間に生まれた[1]。

1676年、アクバルは父アウラングゼーブにより、ムルターンの太守に任命された[1]。

1678年12月10日、マールワール王国の君主ジャスワント・シングが死ぬと、彼と対立していたアウラングゼーブは直ちにその併合を宣言した。

1679年1月9日、アウラングゼーブは大規模な軍隊をマールワール王国の首都ジョードプルへと送り、これを包囲して占拠した。なお、このときの一師団にはアクバルが率いる軍勢もいた。ジョードプルを占拠したのち、マールワール王国の各地にあった寺院は破壊され、偶像はデリーへと移送された。

同年4月2日、アウラングゼーブは帝国全土の異教徒にジズヤを課すことを宣言し、マールワール王国の人民はジャスワント・シングの遺児アジート・シングを王として蜂起し、メーワール王国といったラージプートの反乱も招く結果となった。

アクバルはメーワール王国の首都チットールを占拠したが、1680年5月にラージプートのゲリラに負けたことでチットールから左遷させられた。そのため、彼は父アウラングゼーブに恨みを抱くようになり、マールワール王国のラージプートにアウラングゼーブの偏狭な行為が帝国の破滅を招くとそそのかされ、その考えに同意するようになった[2]。

そして、1681年1月1日にアクバルは自ら帝位を宣し、姉妹のゼーブンニサー・ベーグムの支持も得て、アウラングゼーブに反旗を翻すところとなった[1][2]。彼は軍12000を率いてアジメールへと進撃し、メーワール王国のラージ・シングからは騎兵6,000を提供され、マールワール王国の領土を通過したときにはその加勢も受け、軍勢は25,000となっていた。

だが、アクバルはアウラングゼーブ自らに率いられた軍勢に敗北し、デカンのマラーター王国のもとへと逃げた[2]。一方、彼を支援したゼーブンニサー・ベーグムはこれに連座し、[2]

アウラングゼーブは勝利したものの、これまでのラージプートとの一連の戦闘で受けた損害が莫大であったため、同年6月にメーワール王国に好条件を与えて講和した。メーワール王国と講和後、アウラングゼーブはアクバルが逃げたマラーター王国へと征討をかけるため、同年9月にデカンへ向かて南下した(デカン戦争)[3]。

一方、アクバルはマラーター王国の領土へと逃げたのち、その君主サンバージーの保護のもとで数年を過ごした。だが、デカン戦争が激化すると、1686年9月にはイランのサファヴィー朝へ送られた。

その後、アクバルはイランにおいて父アウラングゼーブの死を祈り続け、1706年3月31日にマシュハドで死亡した[1]。アウラングゼーブが死んだのはその翌年3月3日である。

脚注

参考文献

関連項目

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