アサド政権の崩壊
2024年にシリアの独裁政権が崩壊した出来事
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背景
独裁の開始
シリアの独裁体制は1970年、バッシャール・アル=アサド大統領の父であるハーフィズ・アル=アサドが権力を掌握した頃に始まり、その翌年である1971年にハーフィズが大統領に就任すると、本格的に独裁体制を固めた[3]。
その後、約30年にわたり強権的な政治を続けたハーフィズが2000年に死去すると、その息子であるバッシャール・アル=アサドが大統領に就任した[4][5]。
バッシャール・アル=アサド政権下
シリア内戦まで
後継者指名を受けるまで眼科医師としてイギリスに留学していた経験もあるバッシャールは就任当初、父ハーフィズとは異なり、腐敗撲滅や政治の民主化にも取り組むなど、比較的穏健な統治を行ってきたが、2011年のアラブの春の影響を受けた市民などが反政府デモを起こすと武力弾圧を開始するなど、次第にデモなどへの対応がエスカレートしていった[4]。
シリア内戦
しかし、弾圧がエスカレートしていくとデモや反乱がシリア全体に広がり、シリア軍と反体制派の戦闘が開始された[6]。
ロシアやイランなどがシリア政府を支援したのに対し、トルコやカタールは反体制派、アメリカはロジャヴァを支援するなど、容易に決着がつかない内戦となり、膠着状態となった[6]。
政権の崩壊
この膠着状態は2024年11月末に突如として打開された。打開された理由として、ユーフラテス川東岸の油田地帯をシリア民主軍に押さえられていた事による外貨獲得手段の制限と復興の遅れ、トルコ軍との紛争やイスラエル軍の空爆によるシリア軍の弱体化、シリアを積極的に支援していたイランとヒズボラが2023年パレスチナ・イスラエル戦争、ロシアがウクライナ紛争と、それぞれ自国の戦争に注力した結果、シリアへの支援を縮小した事などが理由に挙げられている[5]。それらの複合的影響でアサド政権が相対的に弱体化したため、反体制派に短期間でアレッポやダマスカスを占領されたと考えられる[5][7]。
イスラエルは「武器が過激派の手に渡るのを阻止するため」として、ゴラン高原における緩衝地帯への進駐のほか、アサド政権崩壊からの1週間でシリア全土の軍事施設に対して350回以上の空爆を実施している[8]。これに対し、国際連合は「市民を危険にさらし、秩序ある政権移行の見通しを損なうものだ」と非難し、直ちにやめるように求めている[9]。
