アシク・テムルは代々ビシュバリクに居住してきたウイグル人家系の出で、トルイ家に仕えたムングスズの息子の一人であった。アシク・テムルは早くから皇太子チンキムのケシク(宿衛)に入り、至元15年(1278年)には遠征に従軍して功績があり、従仕郎枢密院都事に任じられた。この頃、チンキムの妻のココジン・カトンに召し出されて内廷に入り、チンキムとココジンの息子であるカマラ(後の晋王)とテムル(後の成宗オルジェイトゥ・カアン)の家庭教師を任じられている[1]。
至元19年(1282年)、朝列大夫・枢密院断事官の地位を授けられ、大徳2年(1298年)には翰林侍読学士とされた[2]。また、この頃カイシャン(後の武宗クルク・カアン)の家庭教師も任せられ、カイシャンの即位後には栄禄大夫・大司徒・翰林学士承旨・知制誥兼修国史に任じられ、至大元年(1308年)には金紫光禄大夫・領太常礼儀院事を加授された[3]。
至大2年(1309年)9月10日、京師で63歳にして亡くなった。死後、朝廷からは武都王に追封され、忠簡と諡されており、アシク・テムルの事蹟を伝える「武都忠簡王神道碑」の題名はこれに由来する[4]。