19世紀後半には、アジアにおける灯油市場はスタンダード(米国灯油)とシェル(ロシア灯油)によって二分されていたが、1890年にロイヤル・ダッチが設立されると、オランダ領東インド産の原油を精製してアジア・大洋州向けの輸出を増大させたため、三社による激しい販売競争が勃発した[1]。
三社は競争と同時に提携も模索し、1901年12月、シェルはスタンダードとの交渉を打ち切り、ロイヤル・ダッチとの提携について原則的に合意する「英蘭協定」(英語: British-Dutch Agreement)を締結、1903年6月には、両者にロスチャイルドが加わって、「東方でのお互いの競争をやめるために」三者合弁(出資比率は対等)でアジアチック・ペトロリアムが設立された[1]。
上海支社、および後期の本部は、上海・外灘のアジアビル(旧マクベインビル)に置かれた[2]。
日中戦争期には、中国シェル(中国語: 中國殼牌石油公司)へと改称された。同社は、フランク・ホイットルによるジェットエンジンの初期開発にも関与した。同社のI・ラボック(I Lubbock)は「ラボック・バーナー」として知られる燃焼室設計を考案し、これはパワー・ジェッツWUおよびその後のエンジンに使用された[3][4]。
1949年に中華人民共和国が成立した後、同社は当時の中国大陸における唯一の外資系石油会社であった。1951年、中華人民共和国政府は、元は中華民国の輪船招商局(中国語版)に属していた、日本から接収した油槽船「黒潮丸(後に永灝(Yung Hao)、Surf Pilotと改名)」の引き渡しを香港政庁が拒否したことへの報復として、同社のすべての資産を没収した[5]。同船は太平洋戦争中に高雄港でアメリカ海軍の高速空母機動部隊によって撃沈された後、中華民国政府によって緊急修復され、香港の黃埔船塢(中国語版)に修理が委託された。朝鮮戦争勃発後、この船は中華人民共和国への帰順を表明し、五星紅旗を掲げて出航したが、香港水上警察(中国語版)によって九龍湾で拿捕された。
亞細亞火油觀塘油庫(1980年代)
一方、香港においては、アジアチック・ペトロリアムは戦前に大角咀(中国語版)および銅鑼湾に油庫を有していたが、戦後は油庫を観塘の茶果嶺(中国語版)に設置した。1980年代後半、当該油庫は長江実業に売却され、現在の麗港城(中国語版)となっている。