アダル・スルタン国
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民族
アダル・スルタン国に関する記述は、エチオピアの歴史やアラブ人の旅行記に時々出てくる程度であり、どの民族による国であるかさえ正確には分かっていない。ただし、アダル・スルタン国ができる前にこのあたりに来たモロッコの旅行家イブン=バットゥータによると、後のアダル・スルタン国の主要都市のひとつとなるゼイラに住んでいたのは黒人であることから、住民はソマリ族であった可能性が高い。ただし16世紀始めに活躍したアダルの軍人アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジーはソマリ族ともオロモ人とも言われており[2]、必ずしもソマリ族だけの国とも言えない。その言語は現地語とアラビア語の両方が使われていた。また、多くのイスラーム教徒の集団は、集団の創始者が聖地メッカ出身であるとの伝承を持っており[3]、アラブ系の住民がいた可能性も高い。
地理的状況
キリスト教国であるエチオピアとイスラーム勢力との間では13世紀以降、争いが続いた。これには複雑な事情がある。まず、エチオピアは古くは北方のアクスムに根拠地があってダフラク諸島経由で輸出を行っていたが、13世紀以降は拠点をシェワに移し、港湾都市ゼイラを使って貿易をしていた。このルートでは物品の輸送をイスラーム系住民に委ねざるを得ず、両者は共存関係にあった。一方、エチオピア皇帝はイスラーム諸都市から土地を奪ってキリスト教会に寄進したため、本来なら人心を得るための手段であるはずのキリスト教が、いわば帝国の手先の格好になってしまい、これらの土地の住民がキリスト教化することはついになかった[3]。両者はしばらくは共存の形を取っていたが、15世紀のエチオピア皇帝ザラ・ヤコブは強大な王権を使って周辺勢力を武力で従えたため、一方でエチオピア帝国は疲弊してしまい、一方でイスラーム勢力はエチオピアへの抵抗をジハード(正義の戦い)と位置づけてしまい、対立は決定的となった。結局、規模の大小はあるにせよ、17世紀にエチオピアが鎖国するまで両者の争いは続いた[3]。
