アッシュル・ダン3世
古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王
From Wikipedia, the free encyclopedia
来歴
アダド・ニラリ3世の息子として生まれ、兄王シャルマネセル4世の後を継いでアッシリア王となった彼の治世は、アッシリアの王政にとって厳しい時代だった[2] [3]。 前王時代より引き続いて将軍[4]シャムシ・イルが大きな勢力を振るっており、また宦官の勢力も依然として強力であったため、彼自身の権力はかなり制限されたと考えられる。王権が弱く地方長官の自立傾向が目立った時代であったため、大きな業績は無いが、シリアへの遠征や反乱の鎮圧の記録が残っている。
リンムの年誌によれば、紀元前765年、アッシリアを疫病が襲った。このため、翌年の記録では「王は国に留まる」と記述され軍事遠征は行われなかった。通例、アッシリア王は毎年のように遠征を行っており、この言葉は記録の残る紀元前858年から紀元前699年までの間で15回しか使われていない[5]。紀元前763年にリッビ・アリで反乱が起こり、さらにアラプハやグザナでも反乱が起き、紀元前759年まで混乱が続いた。紀元前759年にはもう一度疫病が起きた[6][7]。紀元前758年にグザナへの遠征が行われてようやく平和が回復され、その後、2年連続で「王は国に留まる」と記述されている[5]。国力もしくは王個人の疲弊が窺われる。
彼の死後、弟のアッシュル・ニラリ5世が王位を継いだ。
日食と新アッシリア時代の編年
アッシリアでは毎年リンムと呼ばれる役職に1人の人間が選出され、毎年の記録はその年のリンム職にあった人間の名前で記録された(詳細はアッシリアを参照)。アッシュル・ダン3世の治世中のリンム、ブル・サギレ(Bur-Saggile, グザナの総督)の年の3月(シマヌ)に日食が起こったことが記録されている[5]。この日食が天文学的に紀元前763年6月15日に発生したことが割り出せるため、この年がアッシリア年代学の基点となっている[8]。このため、アッシュル・ダン3世の治世と連結可能な記録が残っていれば、非常に正確な編年を割り出すことが可能である。たとえば、新アッシリア時代の各王の治世年などは、この年を基点にして統治年数を加算、減算することで割り出されている。