アブドル・バハ

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肩書き バハイ信教の聖約の中心
生誕
アバス

(1844-05-23) 1844年5月23日
死没 1921年11月28日(1921-11-28)(77歳没)
墓所 北緯32度48分52.59秒 東経34度59分14.17秒 / 北緯32.8146083度 東経34.9872694度 / 32.8146083; 34.9872694
アブドル・バハ
アブドル・バハ
肩書き バハイ信教の聖約の中心
個人情報
生誕
アバス

(1844-05-23) 1844年5月23日
死没 1921年11月28日(1921-11-28)(77歳没)
墓所 北緯32度48分52.59秒 東経34度59分14.17秒 / 北緯32.8146083度 東経34.9872694度 / 32.8146083; 34.9872694
宗教 バハイ信教
国籍 イラン
両親
親戚 ショーギ・エフェンディ (孫)
地位
先代 バハオラ
次代 ショーギ・エフェンディ
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アブドル・バハ英語: ʻAbdu'l-Baháペルシア語: عبد البهاء、1844年5月23日 - 1921年11月28日)は、バハイ信教の創始者バハオラの長子。父、バハオラから後継者に指名され、1892年から1921年までバハイ信教を指導した[1] 。彼は後に、バハオラおよびバブともにバハイ信教の3人の「中心人物」の一人とされ、著作や、彼自らによるものと認証された講話は、バハイ信教の聖典の一部をなすと見なされている[2]

彼はテヘランで貴族の家系に生まれた。8歳のとき、政府によるバーブ教の弾圧により、父が投獄された。一家の財産は略奪され、事実上の貧困に陥った。故国イランから追放された父に同行し、一家はイラクのバグダードに住居を構え、その地に10年間滞在した。一家は後に、オスマン帝国からイスタンブールに招かれたものの、そこで再び追放処分を受け、到着先のエディルネでも制限を強いられる生活を送ることになった。そして最終的に、パレスチナの監獄都市アッカへ移った。彼はアッカでも囚人として扱われていたが、1908年に青年トルコ革命が勃発したことで、64歳で解放された。これを契機に、発祥の地である中近東を超えてバハイ信教を広めるために、西洋への複数回にわたる旅へと出発した。しかし、第一次世界大戦の開始により、1914年から1918年まで、ハイファに留まることになった。大戦後、オスマン帝国は領土分割に抵抗したものの、パレスチナはイギリスによる委任統治を受けることになった。彼は、戦後の飢饉の防止に尽力したことで、大英帝国勲章2等勲爵士が授与された。1892年、アブドル・バハは、父の遺言により、後継者、かつ、バハイ信教の指導者に任命された。自著の『聖なる計画の書簡』は、北米のバハイを未開拓の新たな地域への教えの普及に向けて奮起させた。遺言書である『遺訓』においては、現在のバハイ信教の行政秩序の基礎を築いた。彼の著作、祈りの言葉、書簡の多くが現存しており、西洋のバハイとの対話では、19世紀末までに信教を成長させることが強調されている。

アブドル・バハの本来の名前はアッバースと言う。ミールザー・アッバース(ペルシャ語)またはアッバース・エフェンディ(トルコ語)と呼ばれることもあった。ミールザーも、エフェンディも、英語の サー(勲爵士)に相当する。彼自らは、バハイ信教の指導者として活動していた期間の大半において、「アブドル・バハ」(父の称号、バハオラ「神の栄光」にちなんだ「神の栄光の僕」)の称号を好んで使用した。バハイ信教の文献では、「師」と一般的に呼ばれている。

一方、後述するように、アブドル・バハは旅先のヨーロッパで、日本との浅からぬ縁を結ぶことになった。

アブドル・バハは1844年5月23日(1260 AHのジャマーディユル・アッワルの5日)、ペルシア(現在のイラン)のテヘランで生まれた[3]バハオラとアーシーイェ・ハーヌムの長男であり、バブが神から遣わされた顕示者としての使命を宣言した同年同日の夜に生まれた[4]。祖父である高名な貴族のミールザー・アッバース・ヌーリーにちなんでアッバース[2]と名付けられた[5]。アブドル・バハの幼少期は、バーブ教共同体内での父の影響力の下に形成された。後年、バーブ教共同体の詩人タヘレとの子供の頃の交流を回顧し、彼女が自分を膝に乗せ、心からの愛情を注いだ言葉で会話を交わしてくれたことが自分に大きな影響を与えたと述懐している[6]。彼の子供時代は幸福で無邪気なときに満ち溢れていた。一家のテヘランの邸宅と田舎の別荘は快適で美しく装飾されていた[7]。妹のバヒヤ、弟のミフディーと共に、特権に守られ、喜びに満ちた生活を送った[5]。幼い妹と一緒に庭で遊ぶことを大いに好み、兄妹間で強い絆を育んだ[7]。彼は、成長期を通じて、両親が自宅の一部を女性と子供のための病棟に変えるなど、多くの慈善活動に献身している姿を目の当たりにしていた[8]

彼は、追放と投獄に人生の多くの時間を費やしたため、正式な学校教育を受ける機会が限られていた。もっとも、貴族の子供たちは、彼を含め、幼少期に一般的な学校に通うことはほとんどなかった。通常、自邸で初歩的な教育を受け、聖典、修辞学、書道、基礎数学などの科目を学ぶことで、宮廷での生活に備えることに教育の重点が置かれた。

アブドル・バハは、7歳の時に1年間のみ、宮廷出仕に向けた準備をするための伝統校に通った[9]。 彼の初期教育は母と叔父が担当したが、学びで主要な役割を果たしたのは父親だった[10][11] 。1890年にエドワード・グランヴィル・ブラウンは、アブドル・バハを次のように描写した。「これほどまでに雄弁な話し手、議論においてより準備ができている者、例示においてより適切な者、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教の聖典にこれほどまでに精通している者は……ほとんど見つけることはできないだろう……」[12]

アブドル・バハは雄弁で魅力的な子供であったとされている[13] 。7歳の時、結核にかかり、助かる見込みはないと診断されるほどに重篤状態に陥った[14] 。症状はやがて収まったものの、これを手始めに、様々な疾患の再発との闘いが生涯にわたって続くことになった[15][16]

幼少期のアブドル・バハに大きな影響を与えた出来事が、8歳の時に父親が投獄されたことだった。このため、一家の経済状態は著しく悪化し、貧困に追いやられた彼は、通りで他の子供たちから敵意が込められた蔑視を受けるようになった[4] 。そのような日々の中、母親に同行し、かの悪名高い地下牢シヤー・チャールに投獄されていたバハオラを訪ねたことがあった[5] 。彼は「目の前に真っ暗で急勾配な空間が下に延びていました。小さく狭い入口から入り、階段を二段降りましたが、その先は何も見えません。階段の途中にいた私に、突然、彼(バハオラ)の声が聞こえました。『彼をここに入れないでください』。それで、私たちは引き返しました」と回顧している[17]

バグダード

バハオラは最終的に刑務所から解放されたものの、追放令が下された。当時8歳だったアブドル・バハは、1853年の冬(1月から4月)にバグダードへの旅に父と同行した[18][17] 。旅の途中、凍傷にかかった。バグダードに到着してから1年が経過した後、父、バハオラが突如として姿を消した。ミルザ・ヤーヤから突きつけられる対立を回避するためであり、1854年4月にスライマニヤの山中に彼が隠遁したのは、アブドル・バハが10歳の誕生日を迎える1か月前のことだった[18]。 悲しみに暮れるなかで、アブドル・バハ、母と妹は常に行動を共にするようになった[19] 。彼は特にこの二人との絆を強め、母は彼の教育と育成に力を注いだ[20] 。当時、中東の社会では14歳が成年期[21] [22]とされていたが、父不在の2年間、彼はその年齢に達する前から家族の諸事を担っていた。この時期の彼はまた、読書に没頭していたことでも知られている。手書きの書籍がまだ主要な出版物であったこの時代、バブの著作の書写も手掛けた[23] 。乗馬にも興味を示し、成長するに従い、上手な乗り手として知られるようになった。1856年、スライマニヤのスーフィーの指導者たちとの対話に参加する隠遁者ダルヴィーシュについての情報が家族や友人たちに届いた。バハオラである可能性を期待した彼らはすぐに出立し、バハオラはバグダードに3月に帰還した。父の姿を目にするや、アブドル・バハはひざまずき、「なぜ私たちを置いていったのですか?」と声を上げて泣いた。母も妹も同様だった[24][25] 。彼はほどなくして父親の秘書兼、護衛の盾となった[4] 。バグダットに滞在する間、アブドル・バハは少年から青年へと成長した。「容姿端麗な若者」として知られ、慈善活動に従事していたことが周囲の人々に記憶されている[4] 。成人年齢である14歳を過ぎ青年期に入ると、彼がバグダードのモスクで宗教的な話題や聖典について人々と語り合う姿が定期的に見られるようになった。バグダードでの滞在期間、父の依頼により、「私は隠れた至宝だった」というイスラム教の伝承について、スーフィーの指導者、アリー・シャウカット・パシャのために解説書を作成した[4][26] 。当時15歳か16歳であったアブドル・バハが、11,000語以上の評論をその年齢で書き上げたことを、アリー・シャウカット・パシャは偉業とみなした[4]。1863年、レズワン庭園として後に知られるようになった庭園で、父バハオラが、自らは神の顕示者であり、到来がバブによって予告されていた神が顕し給う御方であることを同伴していた数名の者たちに発表した。バハオラは庭園に滞在した12日間の間に、自らの使命を最初にアブドル・バハへ明かしたと伝えられている[27][28]

イスタンブール/アドリアノープル

右にいるのはアブドル・バハ。弟のミルザ・ミハディーと共に

1863年、バハオラはイスタンブールに召喚された。18歳になっていたアブドル・バハを含む家族も、110日間の旅に同行した[29] 。コンスタンティノープルへの道のりは過酷なものであった[24] 。アブドル・バハは随行者たちが食事をとれるよう世話をした[30] 。この旅を通じて、バハイたちの間での彼の立場はいっそう際立つようになり[2] 、その地位はバハオラが著した『枝の書簡』においてさらに明確に示された。バハオラは同書簡において、息子の美徳と地位を絶えず称賛している[31] 。バハオラとその家族はコンスタンティノープルに到着したものの、ほどなくしてアドリアノープルへ再度追放された[2] 。その旅の途上でも、アブドル・バハは再び凍傷を患った[24]

アドリアノープルでは、家族、特に母親を慰めることができたのは、ほぼアブドル・バハのみであった[24] 。この頃すでに、彼はバハイたちから「師」と呼ばれ、バハイでない人々からはアッバース・エフェンディ(「エフェンディ」は「閣下」を意味する)と呼ばれていた。バハオラはアドリアノープルで、自らの息子を「神の神秘」と呼んだ[24] 。「神の神秘」という称号は、バハイによれば、アブドル・バハは神の顕示者ではない一方で、「アブドル・バハという存在において、人間性と、人知を超えた知識および完全性という一見矛盾する特質が融合し、完全な調和を成していること」を象徴するものである[32][33] 。バハオラはこのほかにも、「最も偉大なる枝」)[注釈 1]、「聖約の中心」、「目の中のリンゴ」などの多くの称号を息子に与えた[2] 。その後、バハオラに再び追放令が下され、今度はパレスチナが追放先と定められた。併せて、アブドル・バハと家族がバハオラとは別の地に追放される可能性があるとの情報が伝えられ、彼は大きな衝撃を受けた。しかし、バハオラが当局に嘆願した結果、この案は撤回され、家族全員が同じ場所に追放されることが認められた[24]

アッカ (アッコ)

バハオラとその家族が収容されたアッカの監獄

アブドル・バハは24歳のとき、父の側近として執事長を務めていた。この時点ですでに、彼がバハイ共同体の成員の中で傑出した存在であることは明らかであった[29] 。1868年、バハオラとその家族は、パレスチナの刑務植民地アッカへ追放された。この地では、一家が滅びることを目論まれていたのである[34] 。アッカへ到着した彼らを待ち受けていたのは[2] 、敵意を露わにする地元住民たちであった[4] 。女性たちは上陸の際、男性の肩に乗るよう求められたため、アブドル・バハは女性たちを陸へ運ぶための椅子を用意した[24] 。その後、彼の妹と父が病に倒れ、重篤な状態に陥った[4] 。彼は薬品を入手し、病人の看護にあたった[24] 。バハイたちは過酷な環境のもと、排泄物と汚れにまみれた独房群に投獄された[4] 。彼自身も赤痢にかかり重篤となったが[4] 、彼を憐れんだ兵士によって医師の診察が許可された[24] 。住民は彼らを避け、兵士たちは虐待を加え、さらにシーイド・ムハンマド・イスファハーニー(アザリー派の一員)の行動によって状況は悪化した[5][35] 。事故死した末弟ミルザ・ミハディー(22歳)の死により、バハイたちの士気はさらに低下した[24] 。悲しみに沈んだアブドル・バハは、弟の遺体に一晩中寄り添った[5][24]

アッカでの後年

年月が経つにつれて、アブドル・バハは追放されたバハイたちの小さな共同体と外界との橋渡しとしての責任を少しづつ担うようになっていった。彼がアッカ(アクレ)の人々と交流するなかで、住民たちはバハイに罪はないことを認識し、その結果、監禁条件が緩和された[36] 。ミフディの死から4か月後、一家は刑務所からアッボッドの家に移った[37] 。その後、刑務植民地の地元住民からのバハイへの敬意は徐々に強まり、アブドル・バハへの人気が非常に高まった。ニューヨークから訪れた裕福な弁護士のマイロン・ヘンリー・フェルプスは、「シリア人、アラブ人、エチオピア人、その他多くの人々が……アブドル・バハに話しかけたり、彼からの話を聞いたりすることを待ち望んでいた」と紀行文の中で記している[38][39] 。時の経過のなかで、アブドル・バハは家族のために別の滞在施設を借りることができるようになり、一家は最終的に、1879年頃に発生した疫病により、所有者が逃避して不在となったバージの邸宅に移った。

アブドル・バハは、バーブ教の歴史を追った『旅人の話』(マカーラ・イ・シャクヒ・サイヤー)を1886年に出版した[40]。この書は後に1891年にエドワード・グランヴィル・ブラウンの仲介により、ケンブリッジ大学で翻訳・出版された。

結婚と家庭生活

アブドル・バハが若かった頃、バハイの間では彼が誰と結婚するかについての推測が飛び交っていた[4][41] 。数名の若い女性が結婚相手と考えられていたが、本人自身は結婚に気が進まないようだった[4] 。1873年3月8日、父、バハオラの勧めにより[5][42] 、当時28歳だったアブドル・バハは、市の上流階級の家族の25歳の女性イスファハンのファーティメ・ナフリー(1847年-1938年)と結婚した[43] 。彼女の父、ミールザー・ムハンマド・アリー・ナフリーはイスファハンの著名なバハイであり、縁故のある人物だった[注釈 2][4][41] 。バハオラとその妻アーシーヤ・ハーヌムがアブドル・バハの結婚に興味を示したことから、ファーティメはペルシャからアッカへの旅を応諾した[4][43][44] 。彼女は兄弟に護られながら、イスファハーンからの長く倦怠する旅を経て、ようやく1872年にアッカに到着した[4][44] 。若い二人に約5ヶ月間の婚約期間が保られ、ファーティメは結婚式の日まで、アブドル・バハの叔父ミールザー・ムーサーの家に滞在した。後の彼女の回想によれば、アブドル・バハを見た瞬間に恋に落ちたという。彼自身はファーティメに会うまでは結婚に関心を示していなかった[44] 。彼女はバハオラから、「輝かしい」を意味する[45]ムニリフという称号が与えられた[5]バハオラは、バハイがアブドル・バハの例に従い、一夫多妻制から徐々に離れることを望んだ[44][45][46] 。一人の女性とのアブドル・バハの結婚と、彼が一夫一婦制を選んだ選択[44]は、彼の父親の助言と彼自身の願いから[44][45]実践されたものであり、それまで一夫多妻制を正しい生き方と見なしていた人々に対し、一夫一婦制を模範として実践するものだった[44][45]

結婚後、9人の子供が生まれた。最初に生まれたミフディー(男)は3歳前後で亡くなった。続いてズィヤーイーヤ(女)、フワーディーヤ(女、早世)、ルーハングィズ(女、1893年没)、トゥバー(女)、フサイン(男、1887年5歳で没)、トゥバー(女)、ルーハー(女、ムニブ・シャヒッドの母)、そしてムナッワル(女)が生まれた。子供たちの相次ぐ死は、アブドル・バハに深い悲しみをもたらした。特に息子フサインの死は、実母と叔父を亡くした時期に続くものであったため、傷心の彼にさらなる追い打ちをかけることになった[47] 。最終的に成人したのは、ズィヤーイーヤ(ショーギ・エフェンディの母、1951年没)、トゥバー(1880–1959)、ルーハー、およびムナワル (1971年没) の4名であり、全員が娘だった[4](英語原文に付けられていた、女子に「ハーヌム」、男子に「エフェンディ」という敬称省略)

初期の活動

5月29日にバハオラが逝去した後、彼が遺言として残した『ケタベ・アード(聖約の書)』が公開された。そこには、アブドル・バハを「聖約の中心」、後継者、およびバハオラの著作の唯一の解釈者として指名する旨が記されていた。バハオラはこの聖約の書において、長男アブドル・バハを「最も偉大なる枝」として、次男ミルザ・ムハンマド・アリを「大いなる枝」として言及している[48][49]

バハオラは次の聖句で後継者を指定している。

聖なる遺言者の遺言はこれである。すなわち、アグサン、アフナン、およびわが親族は皆、例外なく、最も偉大なる枝にその面を向ける義務がある。我がわが最も聖なる書に顕したこと熟考せよ。「わが現存の海が引き、わが啓示の書が終わったとき、神の定め給うた者、この古の根より生えた者に汝らの面を向けよ。」 この聖句の指しているものは最も偉大なる枝(アブドル・バハ)に他ならない。我はこのように恩寵深くわが強力なる遺言を著した。我は誠に恩寵深く、すべてに恵み深き者である。まことに、神は、大いなる枝(ムハンマド・アリ)の地位を最も偉大なる枝(アブドル・バハ)の地位の下に定め給うたのである。彼こそは定め給う御方、全賢者である。全知者、すべてに見識ある御方なる彼が定められたように、我は「大いなる」を「最も偉大なる」の後にしたのである。

バハオラの遺言において、アブドル・バハの異母弟であるムハンマド・アリは、アブドル・バハに従属する地位として記されていた。ムハンマド・アリは嫉妬心を抱き、兄弟であるバディウラやディヤウラからの支持を取り付けると、自らを正当な指導者としてその権威を確立しようと画策した[3] 。イランのバハイたちと秘密裏に書簡を交わし、人々の心にアブドル・バハへの疑念を植え付けたのである[50] 。バハイの大半は引き続きアブドル・バハに従ったものの、こうした工作により、ミルザ・ジャヴァドやアメリカへの初期布教者イブラヒーム・ジョージ・キラッラなど、一部の者はムハンマド・アリに同調するに至った[51]

ムハンマド・アリとミルザ・ジャヴァドは、アブドル・バハに授けられた権限が過大であると公然と非難し、彼が自らを「神の顕示者」と任じ、バハオラと同等の地位にあると標榜しているかのような流言を広め始めた[52] 。これに対し、アブドル・バハは当時執筆中であった西洋向けの書簡の中で、自らの地位を明確にした。彼は、自らが神の顕示者ではなく、あくまで「僕(しもべ)」にすぎないことを強調し、アラビア語で「神の栄光の僕」を意味する「アブドル・バハ」の名で呼ばれるべきであることを明らかにした[53][54] 。また、自らの遺言書である『遺訓』において、バハイ信教の行政的枠組みを構築した。この枠組みにおいて、「万国正義院」と「守護者」という二つの最高機関を定め、孫のショーギ・エフェンディを守護者に指名した[1] 。アブドル・バハとショーギ・エフェンディを除き、ムハンマド・アリはショーギ・エフェンディの父、ミールザー・ハーディー・シャーラーズィーを含むバハオラの男性親族全員からの支持を取り付けた[55] 。しかし、大半のバハイは彼らの宣伝工作に感化されることはなかった。アッカ地域におけるムハンマド・アリの支持者はわずか6家族にとどまり、彼らはバハイとしての宗教活動を行うこともなく[56] 、やがては完全にイスラム社会に同化していった[57]

過去の諸宗教は、その多くが創始者である預言者の死後、内部分裂や教義の変質という試練に直面してきた。しかし、アブドル・バハは、対抗勢力となった異母弟らによる深刻な脅威を退け、バハイ信教の和合と教義の一貫性を守り抜いた。執拗な攻撃にさらされながらも、バハイ共同体が彼の指導のもと、発祥の地の文化的・地理的な枠組みを超えて世界的な広がりを見せた事実は、特筆に値する。

最初の西洋の巡礼者たち

初期の西洋人バハイ巡礼者。左から右に立っているのは、チャールズ・メイソン・リーミー、シグルド・ラッセル、エドワード・ゲッツィンガー、ローラ・クリフォード・バーニー。座っているのは、左から右にエセル・ジェナー・ローゼンバーグ、マダム・ジャクソン、ショーギ・エフェンディ、ヘレン・エリス・コール、ルア・ゲッツィンガー、エモジーン・ホーグ。

1898年の末頃、アブドル・バハとの面会を求めて西洋からの巡礼者たちがアッカを訪れ始めた。フィービー・ハーストを含む西洋出身のバハイによる初の巡礼団は、すでに西洋で彼との接点を持っていた者たちで構成されていた[58] 。以降、1899年前半にかけて、主にアメリカの上流社会出身の20代女性を中心とする若い層が、断続的にアッカを訪れた[59] 。しかし、こうした西洋人の相次ぐ訪問は当局の疑念を招き、結果としてアブドル・バハへの拘束は一段と厳格化された[60] 。そのような制約下にあっても、彼は続く10年間にわたり世界各地のバハイと絶えず交信を続け、布教を奨励した。交信相手には、スーザン・ムーディ、ルア・ゲツィンガー、ローラ・クリフォード・バーニー、ハーバート・ホッパー、メイ・エリス・ボルズらアメリカ勢のほか、イギリスのトーマス・ブレイクウェル、フランスのイポリット・ドレフュス・バーニーがいた[61] 。なかでもローラ・クリフォード・バーニーは、数年にわたり幾度もハイファを訪れてアブドル・バハに質問を重ねた。これらの対話は後に『質疑応答集』と題する一冊の書物として結実した[62]

在任期間、1901年–1912年

19世紀末の数年間、アブドル・バハは依然として囚人の身でアッカに拘禁されていたが、その間、バブの遺骸をイランからパレスチナへと移送する手配を密かに進めていた。その後、かつてバハオラが遺骸の安置場所として指定したカルメル山の土地を購入し、バブの霊廟の建設を采配した。この大事業の完遂には、さらに10年の歳月を要することとなる[63] 。彼を慕う巡礼者が増加するにつれ、異母弟ムハンマド・アリはオスマン当局と共謀し、1901年8月、アブドル・バハの拘禁条件を再び厳格化した[1][64] 。しかし1902年を迎える前にアッカ総督の支持を取り付けたことで、状況は大幅に緩和され、市外への外出を禁じられていたアブドル・バハのもとへ、巡礼者たちが再び訪問することが可能となった[64] 。1903年2月には、ムハンマド・アリの追随者であったバディウッラーやサイイド・アリー・アフナンらが彼と訣別した。二人は書籍や書簡を通じ、ムハンマド・アリによる陰謀の詳細を暴露するとともに、アブドル・バハに関して流布されていた不名誉な噂が捏造であった事実を公に知らしめた[65][66]

1902年から1904年にかけて、アブドル・バハはバブ聖廟の建設を指揮する傍ら、新たに二つの重要なプロジェクトに着手した。一つはイランシーラーズにあるバブの生家の修復であり、もう一つは、トルクメニスタンアシガバートにおけるバハイ信教初となる礼拝堂の建設である[67] 。彼はアーガー・ミルザー・アーガーに対し、1844年にバブがムッラー・フサインへ自らの使命を宣言した当時の状態に生家を復元するよう指示し[67] 、また礼拝堂の建設をヴァキル・ウッダウリーに委託した[68]

アブドル・バハは、バハイ信教の指導者として、教えの解説や共同体の保護に尽力する傍ら、当時の進歩的思想家たちとも広く交流した。スルタン・アブデュルハミト2世の統治下でオスマン帝国の改革を目指していた多くのトルコ人青年と意見を交わしていた[69]。 アブドル・バハは、「解放を求め、自由を愛し、平等を望み、人類の幸福を祈願し、和合のために命を捧げる準備ができている」ものこそがバハイであると語った。この理念に基づき彼が提示した変革のビジョンは、青年トルコ派が掲げた政治的次元の改革を超え、全人類の幸福を射程に入れた広範な視野を携えるものであった。統一と進歩委員会の創設者の一人であるアブドゥラ・ジェヴデットは、バハイ信教を「イスラム教から脱却し真の進歩へ至る過程の中間段階」と評価し、自ら創刊した定期刊行物でバハイを擁護した。しかし、そのために、彼は裁判にかけられる事態を招くこととなった[70][71]

彼は、ブルサル・メフメト・タヒル・ベイや、1876年のスルタン・アブデュルアズィズ廃位に関与した軍事指導者ベドリ・パシャとも接触を持っていた。1898年頃にアッカでオスマン行政に従事していた際、アブドル・バハと出会ったとされるベドリ・パシャは、ペルシャ語のバハイ文献では「バドリ・ベグ」と記されている。彼はバハイ信教を受け入れ、アブドル・バハの著作をフランス語へ翻訳したとも伝えられている[72]。アブドル・バハは、彼がアルバニア総督を務めていた数年間も、絶えず連絡を取り続けた[72]

また、ベイルートにおいて、イスラム近代主義の先駆者であり、サラフィー運動の重要人物の一人であるムハンマド・アブドゥフとも会見している。両者は宗教改革という共通の志を認識し合う間柄であった[73][74]ラシード・リダーの証言によれば、アブドル・バハはアブドゥフの勉強会にも出席していたという[75] 。ショーギ・エフェンディはこの両者の会合について、「著名なシャイフ・ムハンマド・アブドゥフとの数回にわたる会談は、成長過程にあったバハイ共同体の威信を高め、その最も著名な成員の名声を遠方まで広めることに寄与した」と回顧している[76]

一方で、異母弟ムハンマド・アリによる讒言を受け、1905年には調査委員会が派遣される事態となった。一時はリビアのフェザンへの追放が決定しかけた[77][78][79] が、アブドル・バハはスルタンへの書簡において、信徒たちが党派政治を避けている事実や、タリーカを通じた教化により米国人にイスラム教への理解を深めさせている実態を伝えるという措置を取った[80] 。こうした働きかけの結果、翌年以降、アッカでの圧力は緩和に向かい、巡礼者の訪問も再び可能となった。そして1909年を迎える前に、バブの霊廟はついに完成を見たのである[68]

西洋への旅

アブドル・バハ、アメリカ合衆国に向かう途上

1908年の青年トルコ人革命により、オスマン帝国で政治的・宗教的理由から投獄されていたすべての者が釈放され、アブドル・バハもまた、長きにわたる囚人という身分から解放された。自由の身となった彼が最初にとった行動は、バージにあるバハオラの聖廟を訪れることだった[81] 。革命直後は、アッカに留まったが、ほどなくして、ハイファへと居を移し、バブの聖廟の傍らで生活を始めた[81] 。そして1910年、出国の自由を得ると、エジプト、ヨーロッパ、そして北アメリカを巡る3年間にわたる大旅行へと出発し、バハイ信教のメッセージを世界へと広めていった[1]

アブドル・バハは1911年8月から12月にかけて、ロンドン、ブリストル、パリといったヨーロッパの主要都市を歴訪した。その目的は、西洋のバハイ共同体を鼓舞し、父バハオラの教えをさらに普及させることにあった[82]

翌1912年には、前回よりもはるかに移動範囲が広大となるアメリカとカナダへの旅行へと乗り出した。同年4月11日、ニューヨークへ到着した際、彼はバハイたちが手配した最新鋭の遠洋定期船タイタニック号への乗船を辞退し、用意された乗船費用を「慈善のために使いなさい」と勧めた[83] 。代わりに、時間をかけた海旅を好むとして、低速なセドリック号に乗船した[84] 。4月16日にタイタニック号沈没の悲報に接した際、彼は「乗船を勧められましたが、どうしても気が進まなかったのです」と語ったと伝えられている[83]

アブドル・バハは、ニューヨークを拠点に、シカゴ、クリーブランドピッツバーグ、ワシントンD.C.、ボストン、フィラデルフィアを訪れた。同年8月にはさらに北上し、ニューハンプシャー州メイン州のグリーンエーカー学校、そしてカナダ唯一の訪問先となったモントリオールを訪れた。その後、西へ向かい、ミネアポリス、ミネソタ州、サンフランシスコ、スタンフォード、そしてカリフォルニア州ロサンゼルスを歴訪した。10月末に東部へと戻り、1912年12月5日、再びヨーロッパへ向けて出航した[82]

北米滞在中、アブドル・バハは数多くの教会や団体を歴訪し、滞在先のバハイ宅でも頻繁に会合を開いて、何百人もの人々と対話を重ねた[85] 。講演においては、神の一体性、宗教の一体性、人類の一体性、男女平等、世界平和、そして極端な貧富の格差の撤廃といったバハイ信教の基本原則を提唱した[85] 。また、自らが主催する会合は、すべての人種に対して開かれたものであることを明言した[85]

アブドル・バハの訪問と講演は数百の新聞記事となった[85] 。ボストンで記者から来米の目的を問われると、彼は平和会議への出席を挙げた上で、「ただ警告するだけでは不十分です」と答えた[86] 。特にモントリオールへの訪問は大きく報道された。到着した日の夜、「モントリオール・デイリー・スター」の編集者が彼と会見したことを皮切りに、「ザ・モントリオール・ガゼット」「モントリオール・スタンダード」「ル・ドゥヴォワール」「ラ・プレス」など主要各紙が彼の動静を報じた[87][88] 。それらの記事には、「平和を説くペルシャの教師」「東の賢者が語る人種差別の誤り」「平和の使徒、社会主義者と会見」といった見出しが躍った[88] 。カナダ全土で購読者を持つ「モントリオール・スタンダード」は異例の関心を寄せ、1週間後に記事を再掲載するほどであった。ガゼットは6本の記事にし、モントリオール最大のフランス語新聞は、彼に関する記事2本を掲載した[87]。 このモントリオール訪問は、ユーモア文学者スティーヴン・リーコックをも刺激し、1914年に発刊した彼のベストセラー『 Idle Rich(不労所得の富豪たちとのアルカディア冒険記)』の中に、アブドル・バハをモデルとした人物を登場させる着想を与えた。[89] 。また、シカゴでは「聖者が我らを訪れる、ピウスXではなくA.バハ」と題してローマ教皇と彼を対比する記事が書かれ[88] 、カリフォルニアの「パロアルタン」紙も彼の訪問を報じた[90]

欧州へ戻ると、ロンドン、エディンバラ、パリ(2ヶ月滞在)、シュトゥットガルトブダペストウィーンを歴訪した。1913年6月12日にエジプトへ帰還して半年間滞在した後、ようやく住み慣れたハイファへと戻った[82]

日本との縁

アブドル・バハは、第一次世界大戦が始まる2年前に西洋を旅行していた際に、滞在先のパリとロンドンで二人の日本人と会見している。彼らはそれぞれの立場から、国際社会における日本の立ち位置の確立と各国との和平に尽力していた人物であった。

荒川子爵と会見

1912年、スペイン駐在の日本大使であった荒川子爵夫妻はパリのホテルに滞在中、アブドル・バハもパリに滞在していることを知った。その願いは、一日中長時間の活動で疲れ切って戻ってきたアブドル・バハに伝えられた。彼は、明朝早くにスペインに出立予定であった夫妻のために、夜遅い時間に、寒さと雨のなかを荒川夫妻に会うために夫妻が宿泊していたホテルに出かけて行った。そして、にこやかにしかも丁重に夫妻に応待した。アブドル・バハは荒川夫妻に、日本の状態、その国の国際的な重要性、人類への大なる奉仕、戦争廃止のための努力、労働者の生活条件の改善、男女共に教育の機会を与える重要性などについて語った。彼はまた、宗教の理想は、「人類に福祉をもたらす源泉であること」「宗教はけっして党派的政治の道具に用いられてはならないこと」「神の政策は強大であり人間の政策は微弱であること」を述べた。

さらに、宗教と科学は人間という鳥が飛び上がるための、ふたつの翼のようなものであることを説明し、次のような驚くべき予言をした。「科学的発見は物質的文明を増進させてきました。幸いに、いまだに人間より発見されていませんが、恐るべき威力をもったものが存在しています。精神文明が人間の心を支配するまでは、この威力あるものが科学によって発見されないように、敬愛する神に嘆願しましょう。低俗な性格をもつ人間の手に入れば、この力は全地球を破壊するでしょう」。このように、アブドル・バハは恐るべき威力をもったもの、すなわち原爆が、日本に投下される34年も前に、そのことを日本の指導者に語っていたのである。彼は、さらに1920年、日本のバハイに宛てて、つぎのようにも述べていた。「日本においては、神の宣言は恐るべき爆発のように聞こえるでしょう。そのため、用意のできた者たちは真理の太陽の光で高揚され、照らされるでしょう」

成瀬仁蔵氏との会見

1912年、著名な銀行家であった渋沢栄一子爵は、日本で最初の女子大学の創立者成瀬仁蔵学長と東京大学の姉崎政春博士と共に、「コンコルディア」という運動の中核を作った。その目的は、あらゆる国民が和合し得る共通の基盤を探すことであった。成瀬学長は、その運動のため世界一周の旅についた。かれは著名帳をたずさえ、訪問先の異なった国ぐにの著名人から善意のことばを集めた。帰国後、それは日本語に訳され、出版された。1912年、成瀬学長はロンドン滞在中のアブドル・バハを訪れ、オリエンタル・レビューに掲載された日本でのコンコルディア運動についての記事を見せた。アブドル・バハは、バハイ信教の原則について語り、それらの原則を実行するために、いかに神の力をが必要とされているかを語った。そして、「ちょうど太陽が太陽系におけるすべての光の源であるように、今日ではバハオラが人類の和合と世界平和の中心なのです」と述べ、美しい祈りのことばをその著名帳に書き込んだ。その祈りは現在、日本女子大学の成瀬氏の資料保管所に保管されている。「おお神よ!宗教間、国家間、および人びとの間の論争、不和、戦争の暗黒は真実の地平線を曇らせ、真理の天をおおいかくした。それゆえ、おお神よ、実在の太陽が東西両洋を照らすよう恩恵を授けたまえ」

晩年 (1914年–1921年)

1919年にカルメル山で巡礼者たちと共にいるアブドル・バハ

第一次世界大戦(1914年–1918年)の勃発により、アブドル・バハは旅を断念し、パレスチナに留まることを余儀なくされた。移動が制限されるなかでも、彼は書簡を通じた指導を続け、その中には後に『聖なる計画の書簡(Tablets of the Divine Plan)』として結実する一連の文書も含まれていた。北米のバハイに宛てた14通の書簡から成るこの文書は、後に信教の「三つの憲章」の一つと称される重要文献となり、地球規模で信教を広める責務が北米の共同体に託されたのである。

ハイファは、連合国の爆撃の脅威に現実にさらされており、情勢は極めて緊迫していた。その危険は、アブドル・バハを含むバハイたちがアッカ東部の丘へと一時的に避難を強いられるほどに差し迫るものであった[91]

さらにアブドル・バハは、かつて彼を苦しめたオスマン帝国の軍事長官ジェマル・パシャから、パレスチナにおけるバハイの全財産を破壊し、彼自身にも危害を加えるという脅威を受けていた[92] 。しかし、イギリスのアレンビー将軍による電撃的なメギド攻勢によってトルコ軍はパレスチナから駆逐された。こうして、バハイ共同体に危害が及ぶ直前で、パレスチナにおける戦火は収束を見たのである。

戦後期間

アブドル・バハ

第一次世界大戦の終結により、パレスチナの統治権はバハイに敵対的であったオスマン帝国から、友好的なイギリスへと移った。イギリス委任統治領パレスチナとなったことで、途絶えていた通信や巡礼、バハイ世界センターの開発が再開された[93] 。この復興期、バハイ信教はアブドル・バハの指導の下、エジプト、コーカサス、イラン、トルクメニスタン、北アメリカ、南アジアなどなど各地で組織的な拡大と統合を遂げた。

戦争の終結により、アブドル・バハがかつて予見した国際政治の発展的様相が現実のものとなった。1920年1月、史上初の集団安全保障組織として国際連盟が結成された。彼は1875年の著作ですでに「世界諸国の連合」の必要性を説いていたことから、これを目標への重要な一歩として称賛した。しかし同時に、「国際連盟はすべての国を代表しておらず、加盟国への強制力も不十分でであるため、それのみで世界平和を確立することはできません」とも述べ、その限界を冷静に指摘した[94][95] 。ほぼ同時期のイギリス委任統治下におけるユダヤ人のパレスチナ移民について、彼はこれを予言の成就と見なした。彼はシオニストたちに対し、土地を開発し「住民全体の利益のために国を高める」よう奨励する一方で、「ユダヤ人を他のパレスチナ人から分離しようとしてはなりません」と説いた[96]

1920年4月、大英帝国ナイト司令官叙勲式にてのアブドル・バハ

アブドル・バハは大戦による飢饉の到来を予見していた。第一次世界大戦の開戦から遡ること10年以上前の1901年、彼はヨルダン川近郊に約1704エーカーの荒れ地を購入し、1907年以前よりこの地に入植したイラン出身の多くのバハイに対し、小作農として小麦の生産と備蓄を行うよう奨励した。アブドル・バハは収穫された小麦(またはそれに相当する現金)の2割から3割強を受け取り、それをハイファへと送った。そして戦時下の1917年、彼は収穫分に加え、外部から買い入れた小麦をもハイファへ送付した。これら大量の小麦は、イギリス軍による占領直後のハイファへ到着し、深刻な飢饉に苦しむ住民たちへ広く配布されたのである[97][98] 。飢饉を未然に防いだ北パレスチナでのこの貢献により、彼は1920年4月27日にイギリス総督の邸宅で開催された式典において、大英帝国勲章ナイト・コマンダー授与の名誉を受けた[99][100] 。その後、彼はアレンビー将軍、ファイサル王(後のイラク国王)、ハーバート・サミュエル(パレスチナ高等弁務官)、およびロナルド・ストーアズ(エルサレム軍事総督)の訪問を受けた[101]

逝去と葬儀

『アブドル・バハの葬儀』、ハイファイギリス委任統治領パレスチナ

アブドル・バハは、1921年11月28日月曜日、午前1時15分(ヒジュラ暦1340年ラビウル・アウワル27日)以降に逝去した[102]

当時の植民地大臣であったウィンストン・チャーチルは、パレスチナの高等弁務官宛に、「国王陛下の政府を代表し、哀悼の意をバハイ共同体に伝えてください」と電報を打った。類似する弔文が、アレンビー子爵、イラクの閣僚会議を含む人々からも届いた[103]

彼の葬儀は翌日に行われた。エスレモントは次のように述べている。

……ハイファ、いやパレスチナそのものがかつて見たことのないような葬儀……それほどまでの深い感情が、多くの宗教、人種、言語を代表する何千人もの弔問者を集めたのです。[104]

葬儀での講演の中で、ショーギ・エフェンディは、スチュアート・サイムズ(パレスチナ北地区の知事)から寄せられた以下の弔辞を記録している。

ここにいる私たちの多くは、サー・アブドル・バハ・アッバースのはっきりとした姿を思い浮かべることができると思います。通りを考え深げに歩く彼の威厳ある姿勢、彼の礼儀正しく優雅な態度、彼の優しさ、彼の小さな子供たちや花々への愛、彼の寛大さ、そして貧しい人々や苦しんでいる人々への配慮。彼はとても穏やかで、非常に素朴であったため、共にいると、彼が偉大な教師であること、彼の著作や会話が東洋と西洋の多くの人々を慰め、インスピレーションを与えていたことを忘れそうになるほどでした[105]

アブドル・バハはカルメル山に建設されたバブの霊廟の前室に埋葬された。ただし、この埋葬は、レズワン庭園近郊に彼自身の霊廟、すなわちアブドル・バハ廟が建設されるまでの一時的な措置である[106]

遺産

アブドル・バハは、1901年から1908年にかけて『遺訓(Will and Testament)』を執筆した。これは当時まだ幼少期(4歳から11歳)にあった孫のショーギ・エフェンディに宛てたものである。この『遺訓』の主たる目的は、ショーギ・エフェンディを「信教の守護者」の系譜における初代に任命し、聖典の公式解釈権を含む世襲の行政的役割を付与することにあった。アブドル・バハはすべてのバハイに対し、守護者に従い、彼を支持するよう命じ、その上で守護者に神の保護と導きが下されることをこの『遺訓』において確約した。また『遺訓』は、信教の教えの正当性を公式に保証するだけでなく、バハイたちに布教、精神的特質の研鑽、あらゆる人々との交流、そして聖約の破壊者を忌避することを指示している。さらに、将来設立されるべき最高統治機関「万国正義院」や、信仰の防衛と拡大を担う「大業の翼成者」に課される諸義務についても詳述した[107][1] 。ショーギ・エフェンディは後に、この『遺訓』をバハイ信教の三つの「憲章」の一つに位置づけた。

『遺訓』の正当性とそこに記された条項は、ルース・ホワイトらショーギ・エフェンディの指導に異議を唱えたごく一部のアメリカ人を除き、世界中のバハイから受け入れられた。

1930年および1933年刊の『バハイ世界(The Baháʼí World)』において、ショーギ・エフェンディは、ソーントン・チェイス、ジョン・エスレモント、ルア・ゲッツィンガー、ロバート・ターナーら19名の著名なバハイを「アブドル・バハの弟子」および「聖約の先駆者」として列挙した[108][109][110] 。これらに関する言及は、以後の彼の著作には見られない[111]

後にショーギ・エフェンディは、アブドル・バハを信教における「三人の中心人物」の最後の一人、そして教えの「完璧な模範」としし、その位置づけを明確にした。彼は、アブドル・バハをバハオラやイエスといった「神の顕示者)と同等の地位に置くことは異端であると断ずる一方で、今後1,000年にわたるバハオラの宗教制において、アブドル・バハに比肩する存在は現れないであろうと記している[112]

外見と性格

アブドル・バハ, 1868年

アブドル・バハは容姿端麗であったと記録されており[11] 、その面差しは母に驚くほどよく似ていた。成人後の背格好は中背であったが、周囲には実際の身長よりも高く見える印象を与えていた[113] 。肩まで流れる黒髪、灰色の瞳、そして色白の肌に鷲鼻を備えていた[114] 。1890年、著名な東洋学者エドワード・グランヴィル・ブラウンは、アッカで彼と対面した際の印象を次のように記しているた。

これほど印象深い外見を持つ人物に会うことは、後にも先にもほとんどなかった。直立した矢のように背筋が伸び、長身で体格の良いその男性は、白いターバンと衣に包まれていた。肩に届く長く波打つ黒髪、知性と揺るぎない意志を感じさせる力強く広い額、鷹のように鋭い目、そして、彫り深い容貌でありながらも親しみやすさを与える顔立ち。これが、「師」アブドル・バハに初めて会った時の私の印象であった。[115]

バハオラの逝去後、アブドル・バハは目に見えて年を重ね始めた。1890年代後半には、かつての黒髪は真っ白になり、その顔には深い皺が刻まれた[116] 。青年期には弓術、乗馬、水泳などの運動を好み、秀でていた[117]が、後年になってもその活動力は衰えず、ハイファやアッカで長い距離を散歩することを日課としていた。

生前、バハイたちの精神的支柱であったアブドル・バハの影響力は、今日のバハイ共同体においてもなお揺るぎない。バハイは彼を、父バハオラの教えを体現した「完璧な模範者」と見なし、その生き方に倣うことを自らの指標としている。彼にまつわる数々の逸話は、道徳的指針や人間関係のあり方を示す生きた教訓として、今なお鮮やかに引用され続けている。彼は、類まれなカリスマ性と慈愛、献身的な慈善活動、そしていかなる苦難にも屈することのない不屈の精神によって記憶されている。バハイ信教の大業の翼成者の一人であったジョン・エスレモントは、「アブドル・バハは、現代生活の渦巻く急流の中、そして蔓延する自己愛や物質的繁栄への闘争の中で、神への完全な献身と他者への奉仕に捧げる人生がいまだに可能であることを示した」と述懐している[4]

また、彼の高潔な人格は、時として頑なな敵対者の心さえも動かした。イラン人のミルザ・アブドル・ムハンマドとアラブ人のシャイフ・アリ・ユースフは、エジプトの新聞でバハイ信教に対する厳しい批判を展開していた編集者であった。彼らはエジプトでアブドル・バハに直接面会したことで、態度を大きく改めるようになった。同様に、アメリカでバハイ信教について敵対的な記事を書いていたキリスト教聖職者、J.T.ビクスビー牧師も、彼の人格の高潔さに胸を打たれるしかなかった。ましてやすでにバハイ信教を受け入れていた人々へのアブドル・バハの影響力は、さらに大きなものであった[118]

アブドル・バハは、貧困層や死の淵にある人々に寄り添い、手を差し伸べる慈愛のひととして広く知られていた[118] 。物惜しみすることがなく、自らの家族が「自分たちの分が何も残っていない」とこぼすほど、必要とする人々に身の回りのものを与え尽くした。彼は人々の感情に対して極めて敏感であり[113][118]、「私はあなたがたの父です。あなたがたを深く愛しているゆえ、あなたがたは喜び楽しむべきです」と語り、周囲の人々を包み込んだ。記録によれば、彼は優れたユーモアのセンスを持ち、常にゆったりとした飾り気のない態度で接したという[119] 。また、自らに降りかかった悲劇についても率直に語り、子供たちを失った悲しみや囚人としての過酷な苦難を公の場で分かち合う姿勢は[113] 、人々の敬愛をさらに深めることとなった。

一方で、指導者としてバハイ信教の諸事を采配する際には、細心の注意と毅然とした態度を保った。基本的な原則に反しない限り、教えに対する個人の自由な解釈を幅広く許容したが、自らの指導力に挑戦し、意図的に共同体へ不和をもたらす者に対しては、追放という厳しい措置を取った。バハイへの迫害が勃発した際には、深く心を痛め、殉教者の家族一人ひとりに個人的な手紙を書いて慰めを伝えた。

作品

アブドル・バハが書いた書簡の総数は27,000枚を超え、そのうちのほんの一部が英語に翻訳されている[120] 。彼の作品は二つに分類される。第一群が彼自身が直接記した著作物、第二群は他者が記録した講演やスピーチである[1] 。第一群には、1875年以前に書かれた『聖なる文明の秘訣』、1886年ごろに記された『旅人の話』、1893年に書かれた『政治論』(Resāla-ye sīāsīya)、『信者の回想録』、そして様々な人々に宛てた大量の書簡が含まれる[1] 。これには、翻訳・出版されているオーギュスト・アンリ・フォレルへの書簡『オーガスト・フォレルへの書簡』などの西洋の知識人たちに宛てたものも含まれている。『聖なる文明の秘訣』と『政治論』は匿名で広く流通した。

第二群には『質疑応答集』が含まれている。ローラ・バーニーとのテーブル越しの一連の会話を英訳したものであり、『パリの講話集』『ロンドンのアブドル・バハ』および『万国平和の普及』は、それぞれアブドル・バハが、パリ、ロンドン、アメリカ合衆国で行った講話の記録である[1]

以下は、アブドル・バハによる書籍、講話である。

  • 世界和合の基盤
  • パリ講話集
  • 聖なる文明の秘訣
  • 質疑応答集
  • 聖なる計画の書簡
  • オーガスト・フォレルへの書簡
  • アブドル・バハの遺訓
  • 万国平和の普及
  • アブドル・バハの書簡抜粋集
  • 政治に関する論文 / 統治術に関する説教[121]

参考文献

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注釈

脚注

脚注

参考文献

外部リンク

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