アブリットゥスの戦い
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| アブリットゥスの戦い | |
|---|---|
| 戦争:ゴート戦争 | |
| 年月日:251年6月頃 | |
| 場所:アブリットゥス(現:ラズグラド近郊) | |
| 結果:ゴート族側の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| ゴート族を中心とするゲルマニア人軍団 | |
| 指導者・指揮官 | |
| クニウァ | |
| 戦力 | |
| 不明 | 不明 |
| 損害 | |
| - | - |
アブリットゥスの戦い(アブリットゥスのたたかい、イタリア語:Battaglia di Abrittus)は、251年に行われた、ローマ帝国とゴート族を中心とするゲルマニア人(以下はゴート軍)との戦いである。最終的にゴート軍が勝利を収め、ローマは皇帝デキウスとその共同皇帝ヘレンニウス・エトルスクスが戦死するという大敗を喫した。260年のサーサーン朝とのエデッサの戦いと並んでローマ帝国の国力低下を示す戦いとなった。フォルム・テレブロニィの戦い(Forum Terebronii)とも称される。
デキウスがローマ皇帝へ即位した249年頃より、ゴート族を中心としたゲルマニア人はドナウ川流域のローマ属州であるダキア、モエシア(モエシア・スペリオル、モエシア・インフェリオル)への侵攻を開始した。
このドナウ川流域のローマ属州への侵攻を招いた理由として2つあり、1つは238年より行っていたゲルマニア人に対する補助金を、デキウスの前任者であったピリップス・アラブスが打ち切ったことにゲルマニア人が反発したこと、もう1つはそのピリップスから帝位を奪い取るために当時モエシア地方の属州総督であったデキウスが、これら部族を抑える役割を持っていた軍隊を率いてローマへ進軍したことにより、ドナウ川流域への抑えが無くなったことである。
250年、カルピ人(en)がダキア、モエシア属州へと侵入した。それと同時期にゴート族の王・クニウァ(en)が率いるゲルマニア人の軍勢(以下、ゴート軍)がローマ国境を侵犯した。侵略軍はゴート族が中心となり、軍勢を率いていたクニウァはゴート系の名前である如くゴート族出身であったが、軍勢にはゲルマニア人系やサルマティア系の各部族(バスタルナエ族(en)、Taifals、およびHasdingian Vandals)が加わっていたと考えられる。
ゴート軍・進撃
クニウァを首領とするゴート軍の先鋒部隊はアルガイス(Argaith)とグンテリック(Gunteric)が指揮を取っていたと考えられ、ゴートの先鋒部隊はマルキアノポリス(現:デヴニャ)を包囲し住民より多額の賠償金を得た。マルキアノポリスでの成果を得て、ゴート軍は更に南下してフィリッポポリス(現:プロヴディフ)を包囲した。
一方のクニウァ自身が率いるゴート本軍はモエシア属州を攻撃したが属州総督トレボニアヌス・ガッルスに防がれたため、ドナウ川と交差するオエスクス(Oescus)方面へ侵攻、途中にあるニコポリス・アド・イストルム(Nicopolis ad Istrum)を略奪すべく南下したが、デキウス率いるローマ軍はこれを撃退した。ただし、決定的な打撃とはならなかった。デキウス軍に敗れたゴート軍はバルカン山脈を通ってさらに南へ逃れたため、デキウス軍はフィリッポポリスを救出する目的もあり、ゴート軍を追跡した。
デキウス軍がアウグスタ・トライアナ(現:ベロエ)に休息のため駐屯していた間に、フィリッポポリスはゴート軍の攻撃の前に陥落して、10万ともされる市民が殺戮された。また、マケドニア属州総督ティトゥス・ユリウス・プリスクス(en)はクニウァの支援を受ける形でローマ皇帝を僭称した。プリスクスはクニウァらゴート人らと支配地域を分割するつもりであったとされる。
デキウスは、ゴート族を撃破して、捕虜となったローマ人や収奪された財貨を取り戻すことを優先する方針を取り、息子で共同皇帝であったヘレンニウス・エトルスクスやトレボニアヌス・ガッルスが率いる軍と合流した。
