アブー・ウバイド・バクリー
アンダルスのイスラーム教徒の地理学者、歴史学者
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生涯
バクリーはウエルバにあった小国の王子として生まれた[1]。ニスバはバヌー・バクル部族に属すことから。父のアブドゥルアズィーズは、後ウマイヤ朝の没落に乗じてウエルバで自立を宣言したが、長くは続かず、ムウタディドによりウエルバの統治者の立場から退けられた[2]。バクリーはコルドバへ行き、そこで地理学者のウズリーと歴史学者のイブン・ハイヤーン・クルトゥビーに弟子入りして彼らに学んだ[2]。その後はアルメリーアのカリフ、ムウタスィム(al-Muʿtasim)の宮廷に出仕し、生涯の多くの時間をそこで過ごした[2]。また、セビージャにも長くいたことがあり、1079年にエル・シッドがムウタディドの宮廷にアルフォンソ6世からの贈り物を持って来たときにも、セビージャにいた[2]。バクリーは、著書で触れた各地に実際足を運んだことは一度もなく、コルドバで亡くなった[2]。
著作

バクリーの地誌は、提示する情報が比較的客観的であるとされる[3]。バクリーは地域ごとに、地理、気候、主要な街を記載するだけでなく、そこに住む人々とその習俗、その土地にまつわるアネクドートも記載した[3]。バクリーの著作の多くは失われ、現代には二つしか伝わらなかった[2]。一つ目の Mu'jam mā ista'jam は、アラビア半島を中心とした地名が列挙してあり、地理的背景に関する序説が付されている[2]。二つ目の著作、Kitāb al-Masālik wa al-Mamālik (『諸道と諸国の書』)が重要である。
『諸道と諸国の書』は、ムハンマド・ブン・ユースフ・ワッラーク(904-973)やイブラーヒーム・ビン・ヤアクーブ・トゥルトゥーシーといった商人や旅行者の報告や、その他の文献に基づいて1068年に書かれた[3]。西アフリカの歴史に関する最も重要な一次史料の一つであり、ガーナ帝国、ムラービト朝、10~11世紀当時のトランス=サハラ交易について、かけがえのない情報を今に伝えている[3]。バクリーがイブン・ユースフ・ワッラークから得た情報は10世紀のものであるが、執筆時点で直近に起きた出来事についてもバクリーは書いている[3]。
バクリーは、10世紀終わりごろのトランス=サハラ交易における交易センターの様子について次のように言及している。ニジェール川沿いの町や村では、まだイスラームが本格的に受容されておらず、ガオはムスリムの現地住民がいる数少ない街の一つだったという。
「都市ガーナは平野に位置する二つの街からなる。」「そのうちの一つはムスリムが住む大きな街であり、モスクが12軒ある。そのうちの1軒は金曜日の礼拝に集まる金曜モスクである。職業的な導師やムアッジンもいれば、ムフティーもウラマーもいる」—『諸道と諸国の書』[4]
ガオとガーナのほかにも、西スーダーンには、大河の大湾曲部に沿って交易センターが存在した。11世紀にはこれらの交易センターについての報告が、アンダルスに入ってきており、バクリーはそれらの報告に基づくことで『諸道と諸国の書』を書くことができた。
『諸道と諸国の書』には、そのほかに、スカンジナビア半島に住む人々や、スラヴ人についても書いている[2]。これら10世紀の北欧や東欧についての記述は、ユダヤ人のイブラーヒーム・ビン・ヤアクーブ・トゥルトゥーシーの報告に基づいたものである[2]。バクリーの『諸道と諸国の書』はアラビア語圏で数世紀にわたって読み継がれた[2]。
バクリーには、そのほかに、Aʿyān al-nabār あるいは Kitāb al-nabāt という題名の、薬草学に関する著作があったと考えられるが、失われている[2]。後代の学者が薬草学の権威としてバクリーに度々言及している[2]。