アレクセイ・アラクチェーエフ
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経歴
トヴェリ県の退役将校の家庭に生まれる。砲兵士官候補生隊に入隊。士官候補生時代には「数学に秀でているが、言語学には才能がない」と評価された。士官候補生時代の恩師メリッシーノ伯爵により取り立てられ、帝位継承者だったパーヴェル1世のガッチナ駐屯軍に配属されると、厳しい規律で一流の軍隊に変貌させた。パーヴェル1世の即位後は首都司令官、砲兵監察官となり、直接部隊を巡回して厳格な規律を敷いた一方、食事や入浴といった兵士の生活改善に努め、賄賂を断固拒否した。一時的な解任を経て、アレクサンドル1世にも重用されて1808年陸軍大臣を務めた[注釈 1]。彼はフリートラントの戦いで敗戦状態の軍の改革を開始し、補給システムの整備や砲兵部隊の再編成を進め、特に砲兵には1803年から砲兵監察官として抜本的な改革を行った。これらの施策は、ナポレオン戦争で効果を発揮した[2]。その後、ナポレオン戦争を経てウィーン会議の頃より皇帝の信任厚い寵臣としてロシアの国内政治における実力者に上り詰めた[3]。アラクチェーエフは、粗野で無教養、かつ冷酷な軍人であったが、皇帝への忠誠心が厚く、公平無私であった。
ナポレオン戦争後、アラクチューエフは権力闘争に勝利し大臣会議、国家評議会、皇帝官房を掌握し事実上、国政を壟断するに至った。アラクチェーエフはアレクサンドルには忠実で、アレクサンドルが発想し、ナポレオン戦争以前からロシア国内の一部で導入されていた屯田制度ボエーンヌィエ・ポセレーニヤを戦後の破綻した国家財政再建策として、大々的に実施したが[4]、アラクチェーエフによる過酷な労働と訓練から結果は惨憺たるものに終わった[注釈 2]。
アラクチェーエフの権勢は、アレクサンドル1世の死により終わりを告げた。新皇帝ニコライ1世によりアラクチェーエフは失脚し、チュドヴォ近郊に建てた新古典主義建築の屋敷グルジノ(第二次世界大戦により破壊された)に隠居して1834年に死去。ニコライ1世は、法的相続人がいないことを理由としてアラクチェーエフの土地と財産まで没収した。
