伯爵
欧州大陸の爵位 (Count, Comte)
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伯爵(はくしゃく)は、ヨーロッパの貴族・爵位体系における称号の一つであり、その日本語訳として用いられる語である。近代日本では華族の五爵の第3位とされ、侯爵の下位、子爵の上位に位置づけられた。他方、ヨーロッパにおいて「伯爵」と訳される称号は一様ではなく、ロマンス語圏の comte・conde・conte のようにラテン語 comes に由来するもののほか、イングランドの earl やドイツ語圏の Graf など、語源も歴史的性格も異なる称号がこれに対応している。とくに中世ヨーロッパでは、伯爵は単なる序列爵位ではなく、地方統治や軍事指揮と結びついた高位の官職・領域支配者として現れることが多かった[1][2][3]。
語源

伯爵に相当する称号の多くは、ラテン語の comes(属格 comitis、対格 comitem)に由来する。フランス語の comte は、10世紀に現れた語形で、ラテン語 comitem に由来するとされる[4]。
comes(コメス )は本来、「仲間」「同行者」「誰かに結びついた者」を意味する語であった。フランス語語源辞典であるCNRTLおよび『アカデミー・フランセーズ辞典』によれば、この語は後に「皇帝の随員」「皇帝に仕える者」を意味するようになり、さらにコンスタンティヌス帝時代には「皇帝の委任を受けた者」、すなわち公的任務を担う代理官・高官を指すようになった[5][6]。

このように、comes は当初から近世的な序列爵位を意味したのではなく、まず人間関係を表す一般語として出発し、後期ローマ帝国において宮廷的・官職的な称号へと特殊化した。さらに『アカデミー・フランセーズ辞典』は、後期ローマ帝国から初期中世にかけての comte を、主権者のもとで重要な職務を担う高位者、あるいは地方の一地区の長に与えられた称号として説明している[7]。
ブリタニカ百科事典も同様に、ローマ帝国の comes はもともと皇帝の同伴者であり、フランク時代には地域の司令官並びに判事となったと要約している。したがって、伯爵号の起源は、単なる名誉称号ではなく、君主に近侍し、のちには地方統治や裁判を担う官職的地位に求められる[8]。
フランス語の comte は、中世を通じてなお官職的性格を残しつつも、しだいに領域支配と結びついていった。CNRTLは、メロヴィング朝およびカロリング朝において comes が高位要職の称号であった一方、9世紀以降には王権の変質とともに「comté を持つ者」の意味へ傾いていったと説明している。すなわち、語の歴史においては、宮廷・統治の官職名であった comes / comte が、しだいに伯領を有する支配者の称号へと変化していったのである[9]。
この変化は、comté という語にも反映されている。『アカデミー・フランセーズ辞典』は comté を「その土地の領主が伯を称する根拠となる土地の称号」と説明し、CNRTLはその語源を[[中世ラテン語 comitatus に求めている。さらにCNRTLによれば、comitatus は779年にはすでに「伯によって統治される領域」を意味し、980年頃には「裁判所」の意味も有していた。したがって、伯爵号の成立は人の称号の形成だけでなく、伯の支配領域および裁判権の語彙の成立とも密接に結びついていた[10][11]。
このように、伯爵に相当する称号は、語源的には「仲間」「随員」を意味するラテン語に発し、後期ローマ帝国における委任官・高官の称号を経て、フランク世界では地方統治・司法・軍事と結びつく高位官職となり、さらに中世西欧では伯領を保持する世襲的支配者の称号へと展開した。現在の「伯爵」という訳語の背後には、このような長い語義変化と制度的変容が存在する[12][13]。
フランスにおける comte の成立と展開
フランスにおける伯爵(comte)は、近世の序列爵位としてのみ理解されるべき称号ではない。初期中世においてそれは、まず国王に仕える高位の地方官であり、その職務は特定の領域と結びついていた。カロリング期の統治機構を論じた歴史家 Horst Lößlein によれば、伯爵は王領の管理、郡における平和維持、裁判、王令の執行、軍勢の招集を担う存在であり、国王の権力を地方へ伝達する役割を負っていた。もっとも、国王が伯爵を完全に自由任命できたわけではなく、地方有力者の勢力や父子継承の慣行にも制約されていたため、伯爵職は早くから公職と地方権力の中間的性格を帯びていた[14]。
伯爵職の領域的基盤を理解するうえで重要なのが、南フランスの文書に現れる pagus と comitatus である。歴史家 Pierre-Yves Laffont によれば、9世紀から11世紀半ばまでのフランス南東部ヴィヴァラ地域では、上位の地域参照語として pagus がもっとも多く、comitatus がそれに次いだ。ここで comitatus は、もともと comes(伯)の職務そのもの、さらにその職務を支える報酬基盤、そして伯が権限を行使する地域までを意味する多義語であった。他方、pagus は古代末期には課税・財政上の地域単位であり、初期中世には civitas の領域、さらには comitatus の地域的基盤を指す語となった。Laffont は、9〜10世紀の段階では pagus と comitatus は文書上ほぼ互換的に使われ、いずれも伯の権威が及ぶ公的領域を表していたとする。したがって、初期中世の伯領は、後世の固定化した貴族領のようなものではなく、伯の職務・権限・地域がまだ一体のまま把握される空間であった[15]。
歴史家ロラン・シュナイダー(Laurent Schneider)のセプティマニア研究は、この広域的な地域秩序の変化をさらに明確に示している。彼によれば、カロリング期から11世紀にかけての文書では、パグス(pagus、古い行政的な地域区分)、テリトリウム(territorium、地域・領域を表す語)、コミタトゥス(comitatus、伯の職務・権限が及ぶ地域、すなわち伯領)、エピスコパトゥス(episcopatus、司教区ないし司教座の権利圏)が、大きな空間枠組みを示す主要語であったが、それらは完全な同義語ではなかった。パグスは長く優勢で、司教座都市を中心とする古い都市圏全体を指していた。他方、コミタトゥスは10世紀後半から一般化し、1000〜1050年ごろにはパグスに代わる主要語となる。シュナイダーは、11世紀に広く用いられる段階でコミタトゥスの意味は「おおむねパグスに等しい」としており、少なくともこの時期の南フランスでは、伯領は古い都市圏的な大きな地域枠を引き継ぎつつ、それを伯の政治的支配単位として表現し直したものだったとみられる[16]。

ただし、伯領という地域秩序は固定的ではなかった。シュナイダーは、972年の文書ではある土地が 「パグスの中の、ウィカリアの中の、ヴィラにある」(in pago … in vicaria … in villa)と位置づけられていたのに対し、11世紀半ばには 「コミタトゥスの中の、教区にある」(in comitatu … in parrochia)、さらに12世紀初頭には 「教区にある」(in parrochia)のみで位置づけられるようになる例を示している。ここでウィカリア(vicaria)とは、伯領の下位に置かれた行政的・司法的な区分、ヴィラ(villa)とは当時は単なる「村」ではなく、土地のまとまりや地域単位を指す語であり、パロキア(parrochia)は教区を意味する。彼の統計では、950〜1000年には文書のほとんどがパグスまたはコミタトゥスといった大きな公的地域枠を参照していたが、12世紀後半にはその比率はごくわずかとなる。つまり、かつて伯領や古い都市圏が担っていた空間把握の中心は、しだいに教区や村落、城を中心とするより局地的な空間へ置き換えられていった[17]。
ラフォン(Pierre-Yves Laffont)もまた、ヴィヴァレ地方において11世紀半ばが決定的な転換点であることを示す。彼によれば、この時期にパグスとコミタトゥスは土地の所在を示す文書上の定型句から消え、同時にヴィグリー(viguerie、下位の行政・司法区分)も衰退した。代わって、上位の地域枠としてエピスコパトゥスやディオケシス(diocesis、司教区)が前面に出て、局地的にはパロキア(教区)が強まる。さらに、住民を実際に統制する単位として現れるのがマンダメントゥム(mandamentum、城主の命令権・強制権が及ぶ範囲)である。これは、他地域でいうカステッラニア(castellania、城を中心とする支配圏)に近い。ラフォンによれば、マンダメントゥムは古いヴィグリーをそのまま受け継いだのではなく、城の増加にともなってより細かく再編された新しい地域単位であった。これによって、古いカロリング的な地域秩序は、教会区画と城主権力を基盤とする新しい中世的秩序へと移行した[18]。
アイマット・カタファウ(Aymat Catafau)の北カタルーニャ研究は、この変化にさらに別の側面を加えている。彼によれば、コミタトゥスはカロリング帝国圏南縁における基本的な政治単位であったが、最初から固定されたものではなく、地理的まとまりや政治的自立の進展とともに次第に安定した地域枠となった。また山地では、当初はヴァレ(vallée、谷)のような地形単位が強い参照枠であったが、時代が下るにつれてコミタトゥスが土地の所在を示す定型句の第一位を占めるようになる。これは、伯領が単なる行政上の線ではなく、人々が実際に把握し生活する空間と重なりうることを示している[19]。
さらにカタファウは、領域を単なる地理的広がりではなく、権利が及ぶ空間として捉える。彼によれば、パロキア(教区)と、テルミヌムまたはテルミニウム・カストリ(terminium castri、城の境界で区切られた支配範囲)は、住民と土地が所属と負担の面から定義される生活空間であり、そこには領主の裁判権、教会の十分の一税や埋葬権、さらには森林・牧草地の利用権などが重なる。たとえばカタルーニャでアデンプラメントゥム / エンプリウ(adempramentum / empriu)と呼ばれる用益空間は、放牧や木材利用の排他的権利が及ぶ区域であり、教区や村落の範囲と必ずしも一致しなかった。つまり中世の領域とは、単なる「土地の面積」ではなく、裁判・徴収・市場・森林・牧草地などの諸権利が重なり合う空間だったのである[20]。

このように、フランスにおけるコント(comte、伯)の成立と展開は、単なる爵位序列の成立史としてではなく、官職・権限・領域・権利空間の変容として理解するべきである。初期には伯爵は国王の地方統治を担う官人であり、その権限の及ぶ空間はパグスやコミタトゥスとして表現された。だが11世紀以後、その広域で公的な地域秩序は、司教区・教区・マンダメントゥムを中心とする、より局地的で封建的な空間秩序に置き換えられていった。フランスの伯とは、このような長い過程のなかで、官職から領域支配、さらに複数の権利空間の上位枠へと性格を変えていった存在であった[21][22][23][24]。
欧州のロマンス諸語圏、すなわちイタリア、フランス、スペインなどでは伯爵相当の語はComesに由来する言葉が爵位名として用いられている。英語では「count」と訳され、「Earl」と同等とされる。伯爵夫人(未亡人を含む)や女伯爵についてはそれぞれ女性形が使用される。
- イタリア語: cónte(コンテ)、女性形 伊: contéssa
- フランス語: comte(コント)、女性形 仏: comtesse
- スペイン語: conde(コンデ)、女性形 西: condesa
フランスの伯爵一覧


イル=ド=フランス(パリ近郊・旧王領)
- ダマルタン伯
- エタンプ伯
- ガティネ伯
- ムラン伯
- モンフォール伯
- モンフォール=ラモーリー伯
- パリ伯
- シュジー伯
- ヴァロワ伯
- ヴェクサン伯
ノルマンディー
- オマール伯
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- エヴルー伯
- ロングヴィル伯
- モルタン伯
- タンカルヴィル伯
シャンパーニュ
ブルゴーニュ・フランシュ=コンテ
ピカルディ・フランドル・アルトワ(北部)
ブルターニュ
- ナント伯
- パンティエーヴル伯
- ルージェ伯
- ヴァンヌ伯
ロワール流域・中央部(アンジュー、ベリー、オルレアーヌ等)
- アンジュー伯
- ベリー伯
- ブロワ伯
- ビュエイユ伯
- シャルトル伯
- シャトードゥン伯
- シュヴェルニー伯
- ドルー伯
- デュノワ伯
- ラヴァル伯
- メーヌ伯
- オルレアン伯
- ペルシュ伯
- プレシ=ベリエール伯
- サンセール伯
- トゥール伯
- ヴァンドーム伯
南西部(アキテーヌ・ガスコーニュ・ポアトゥー)
- アジャン伯
- アングレーム伯
- アルマニャック伯
- アスタラック伯
- ブノージュ伯
- ビゴール伯
- ボルドー伯
- ブートヴィル伯
- カンダル伯
- コマージュ伯
- フェザンサック伯
- エルボージュ伯
- リュクス伯
- パルディアック伯
- ペリゴール伯
- ポアティエ伯
南部・中央高地(ラングドック、オーヴェルニュ等)
- オーヴェルニュ伯
- カストル伯
- カルカソンヌ伯
- フォワ伯
- ジェヴォーダン伯
- リムーザン伯
- マルシュ伯
- メルグイユ伯
- モンパンシエ伯
- ロデーズ伯
- ルエルグ伯
- サン=ジル伯
- トゥールーズ伯
南東部(プロヴァンス、ドーフィネ、リヨネ)
- アルボン伯
- アルル伯
- ブリアンソン伯
- アンブラン伯
- フォルカルキエ伯
- フォレ伯
- ギャップ伯
- グルノーブル伯
- リヨン伯
- オワザン伯
- プロヴァンス伯
- ヴィエンヌ伯
東部(ロレーヌ・バル・サヴォイ周辺)
- バル伯
- コリニー伯
- リニー伯
- ヴォーデモン伯
- ヴェルダン伯
その他
- ルシヨン伯(ピレネー東部)
イギリスの Earl
起源と前史
イングランドにおける伯爵の歴史は、ロマンス語圏のようにそのままラテン語の comes から始まるわけではない。初期のイングランドでは、後世の伯爵位につながる要素は、少なくとも二つの異なる系統として現れる。一つは、最古級の英語法典に現れる eorl(上位の自由人・貴人)という身分的な語であり、もう一つは、アングロ・サクソン国家の地方統治を担った ealdorman(太守)(州を統治し、州軍を招集する高位地方官)という官職である。したがって、イングランドの伯爵位は、最初から完成された「爵位」として存在したのではなく、上位身分者の語と王権の地方官職という二つの流れが、長い時間をかけて重なり合うことで成立したとみるべきである[25][26]。

最古級の法典であるケント王エゼルベルトの法では、eorl はすでに一般自由人 ceorl(平民自由人)よりも高く扱われている。たとえば法文は、eorl の屋敷(eorles tun)で人が殺された場合の賠償と、eorl に属する侍女・給仕女(eorles birele)との関係に対する賠償を別建てで定めており、その直後に ceorl の保護や侍女に関する規定が並んでいる。ここから分かるのは、この段階の eorl が、単なる「尊い人」という曖昧な敬称ではなく、家・配下・保護額を伴う上位身分者として法的に明確化されていたことである[27]。
もっとも、この eorl をそのまま後世の earl に直結させることには注意が必要である。歴史家フレデリック・アッテンブルフは序文で、現存写本の言語はかなり後代化しており、eorl という語の扱いは単純ではないと警告している。彼は、他の古英語散文では eorl がしばしば北欧語 jarl の訳語としてしか現れない点にも触れており、したがって最古法典の eorl は、のちの制度化された伯爵位の直接的証拠というより、イングランド法文化の中に早くから存在した上位身分語として理解するのが妥当である[28]。
これに対し、後世の伯爵位の制度的な骨格により近いのは、ealdorman の系統である。ジェニファー・パクストンは自身の著『The Story of Medieval England』は、これをアングロ・サクソン王の官人で、州(shire)を管轄し、州軍(fyrd)を招集する者と説明している。つまり ealdorman は、身分語ではなく、王権から委ねられた軍事・行政上の高位地方官であった[29]。
アングロ・サクソン国家における州官としての性格
10世紀の統一イングランド王国において、地方統治の基本単位は shire(州・州区)であった。パクストンは自著で、10世紀のイングランドを「当時のヨーロッパでもっともよく統治された国の一つ」と位置づけ、その地方秩序が州ごとの軍事・裁判・財政・命令執行によって支えられていたと説明する。州は主要都市の名で呼ばれ、軍も州単位で招集され、その州を統轄する高位官が ealdorman であった[30]。
この ealdorman の主な仕事として、パクストンはとくに州軍を率いることを挙げているが、その役割は軍事に限られなかった。彼らはしばしば大所領を持ち、州内秩序の中核をなし、必要に応じて shire reeve(州代官、のちの sheriff)を用いて地方運営を補佐した。重要なのは、これが終身職であっても当然の世襲職ではなかったことである。すなわち、アングロ・サクソン国家における ealdorman は、在地有力者でありながら、なお本質的には王権に結びついた官職であり、単独の家門が当然に受け継ぐ封建的「伯領主」ではなかった[31]。

法典集『The Laws of the Earliest English Kings』この高位地方官としての性格をさらに具体的に示す。ここでは、王の家と並んで ealdorman の家が特別な平和の空間とされ、また、大司教・司教とともに ealdorman の面前 での争闘が特別に扱われることが分かる。これらは、ealdorman が単なる豪族でなく、その家やその面前自体が公的秩序の場とみなされていたことを意味する[32]。
さらに同書では、罪を犯した ealdorman が、王の赦しがない限り自らの shire を失うという趣旨の規定も見える。これは、彼の地位が単なる土地所有や身分ではなく、王が与え、王が剥奪しうる州官職であったことをよく示している[33]。
古典的制度史である『The History of the English Constitution』も、この理解を補強する。同書は、アングロ・サクソン期の州裁判が司教と ealdorman によって主宰され、その下で shire reeve / sheriff が軍事・法務・警察・財政の実務を担ったとする。したがって、アングロ・サクソン国家における地方統治は、司教・州官・州代官の三者が重なり合う制度だったと理解できる[34]。
地方史にみる ealdorman の実務
こうした制度的説明は、地方史において具体的な姿をとって現れる。なかでも Ely(イーリー、東部イングランドの修道院中心地) は好例である。British History Online所収の「Origins of the Liberty of Ely」によれば、10世紀末の土地紛争に際して、イーストアングリア太守エゼルウィンはイーリーに赴き、修道院北門の墓地内で「すべての Hundred(百戸区)」を立ち会わせて審理を開いた。また別の案件では、Wulfstan of Dalham(ダラムのウルフスタン、ケンブリッジシャーの sheriff) が、二つの百戸区を集めて plea(審理)を主宰している。さらにストネアにおける土地争いでは、当事者が繰り返し出頭を怠ったため、エゼルウィン太守がケンブリッジでの great plea(大審理)に事件を持ち込んだ。ここでは ealdorman と sheriff が、土地権利の確認、百戸区の召集、裁判の管轄移送に直接関わっていたことが分かる[35]。
同じイーリーの地方史は、11世紀になると修道院の liberty(特権的支配圏)が、はじめは fines and amercements(罰金収入)の受領にとどまっていた可能性があるものの、やがて team(所有由来を追及する裁判権)・ infangentheof(現行犯の盗人に対する裁判権)・ fihtwite(争闘に対する科料)・ fyrdwite(軍役不履行の罰金), hamsoke(住居侵犯・屋内暴行に対する罰金権)・ grithbrice(治安保護違反の科料) などを伴う自前の裁判権を持つ特権圏へ発展したと論じる。これは、アングロ・サクソン後期の地方秩序が、単に州官と州代官の手の中にあるだけでなく、修道院のような有力教会にも司法・徴収・保護の権限が委譲されうることを示す。換言すれば、ealdorman の秩序は強固でありながら、同時にその一部は早くから他の特権体へ分け与えられつつあった[36]。
デーン征服と伯爵位への再編

11世紀に入ると、この ealdorman の制度は大きく組み替えられる。パクストンは、ealdorman はまずデーン支配地域で earl に置き換えられ、その後クヌート大王のもとで王国全体に広がったと説明している。ここでいう earl は、語源的には北欧系でありながら、制度上は ealdorman の役割を継承するものであった。しかし、その置換は単なる名称の変更ではない。パクストンは、ealdorman が本来一つの州に対応する高位地方官だったのに対し、クヌート期以後の earl はより少数で、より広い領域を支配する者として描いている[37]。
この転換を、ローレンス・M・ラーソンの著作『Canute the Great』はもっと露骨な政治の言葉で説明する。同著Chapter V によれば、征服直後のクヌートの課題は、敵対的なサクソン人の上にどう王座を安定させるかであった。そしてそのために彼が部下に与えた報酬は、現金、没収地、そして “the office and dignity of an earl” であった。つまり earldom はここで、征服王が忠実な部下に授ける高位官職・威位として、明確に政治装置化されている[38]。
ラーソンはさらに、クヌート治世の最初の十年間、より重要な地方支配の多くはデーン人・ノルウェー人に与えられ、エゼルレッド無策王時代の ealdormen はほとんど継続されなかったと述べる。残った者も亡命するか、重要でない役割しか与えられなかったという。ここでは、earl 制は旧来の英語地方官の自然な延長ではなく、むしろ征服王が古い州官層を切り崩し、新しい北方系有力者を据えて作り直した支配機構として理解されている[39]。
クヌート体制下の伯領とその担い手
ラーソンによれば、クヌートの主要 earls は、少数の有力北方家門から選出された。すなわち、のっぽのトルケル(スコーネの有力者)、エイリーク・ハーコナルソン&ハーコン・エイリークソン父子、ウルフ・トールギルソン&エグラフ(Eglaf)兄弟である。しかもエイリークとウルフはクヌートの姉妹と婚姻していた。したがって earldom は、この時期には地方行政の器であるだけでなく、王朝の婚姻と北方有力家門の同盟網を結ぶ節点でもあった[40]。
そのなかで特に目立つのがゴドウィンである。ラーソンは彼を「最初に重要なイングランド人 earl」と位置づけ、1019年からクヌート治世末までほぼ全ての特許状に現れる人物として扱う。しかし同時に、ゴドウィンは旧来の英語貴族の自然な代表ではなく、クヌートがGytha(ギータ、デンマーク貴婦人)を妻として与えることで、新王朝に婚姻で結びつけた人物だとする。つまり、ゴドウィンはイングランド人ではあるが、征服後体制の内部で育った新手の earl として描かれている[41]。
ゴドウィンと並ぶ地元の Earl としてレオフリックが挙げられるが、ラーソンの重点はゴドウィンに置かれている。彼によれば、レオフリックはマーシアの筆頭統治者となった可能性が高いが、ゴドウィンほど王権中枢との結びつきは強調されない。したがって、クヌート体制におけるイングランド人 earl の中でも、王朝と個人的に結びついて巨大化したのは ゴドウィン家であったといえる[42]。
この時期の earls はまた、安定した封建領主というより、王の意思によって配置換えされる高位政治職でもあった。ラーソンは、1021年頃ののっぽのトルケルの追放を、クヌート最初の大きな内部亀裂として描く。理由は不明だが、旧王朝への同情や、カンタベリー大司教アルフェージュ大司教(Alphege)殺害への関与による教会側の反感などが推測される。それでもクヌートは数か月後に彼と和解し、デンマークでそれに近い地位を与えた。エイリークもまた、有力 earl であったが、王国全体の統治を補佐するには適さない alien lord とみなされ、最終的にはその役割を縮小させられたらしい。こうしてみると、earldom はこの時期、王権に近接し、王国統治を担うが、同時に王によって容易に再編されうる地位であった[43]。
大伯領の形成と 1066 年前夜

11世紀半ばになると、earldom は単なる州官の再編にとどまらず、王位継承そのものを左右する現実の大政治単位へ変わっていく。パクストンによれば、ゴドウィン家はゴドウィンの死後、ハロルド・ゴドウィンソンがウェセックス伯(earl of Wessex)を継ぎ、さらに 1055年には弟トスティ・ゴドウィンソンがノーサンブリア伯(earl of Northumbria) となることで、王ではないのに王国の中核大伯領を掌握する家門となった。ここでの earl は、もはや一つの州の州官ではなく、ウェセックスやノーサンブリアのような広大な地方ブロックの支配者となったのである[44]。
この大伯領の実体は地方史でも確認できる。British History Online 所収の「Pre-Conquest Westmorland」は、1066年に現在のウェストモーランド南部、すなわち Kentdale(ケントデール) と upper Lonsdale(上ロンズデール) がノーサンブリア伯領に属していたとする。そしてトスティが1065年の反乱で失脚するまでこの地方最大の土地所有者であり、ビータムの彼の所領に七つの村が従属していたことを述べる。ここで earldom は、単なる名目的広域権力ではなく、具体的な所領群・従属村・国境支配を束ねる現実の地域単位として現れている[45]。
このことは、伯の地位が地域社会との関係のなかで揺れうることも意味した。ヨークの地方史は、1065年にヨークで開かれた gemot(公会・集会) に200人の従士が集まり、トスティを追放・公敵宣告し、先のノーサンブリア伯シワードの子ウォルシオフを退けて、代わりにモーカー(当時のマーシア伯エドウィンの弟) を選んだと記す。ここでは伯爵位は、王の任命だけでなく、地方有力者・都市住民・軍事勢力の政治的合意と反発の中心にある[46]。
同時に、ゴドウィン家の力は南部の都市的権利にも及んでいたらしい。British History Online のサザークの地方史は、同地が古くから王領の一部であり、クヌート大王がサザーク内の一定の権利をゴドウィン伯に与えた可能性を指摘する。別箇所では、ある tolls(通行税等)が王・ゴドウィン伯に属したと証言されている。したがって、11世紀のゴドウィン家の earl は、農村を所領として持つだけでなく、王権と都市収入・都市権利を分有する存在でもあった[47]。
ノルマン征服後の伯爵と王権
ノルマン・コンクエスト後も、Earl はなお王国政治の中で大きな位置を占めたが、その役割はアングロ・サクソン期の州官としての Earl とはやや異なるものとなった。パクストンは、ウィリアム征服王が旧来の命令書や集会制度を一定程度引き継いだ一方、反乱の危険を抑えるため、有力諸侯を厳しく監視し、城とノルマン支持者による支配を広げたと述べている。すなわち、征服後の伯爵位は、王権の地方的代理として機能し続けたものの、その地位はもはや州ごとの日常的な行政・裁判を担う在地官職というより、王に対して軍事力と所領を背景に奉仕する高位貴族職として位置づけ直されていった[48]。
この変化は、Earl の政治的重要性がなお高かったことによっても示される。パクストンによれば、1075年には、ヘレフォード伯ロジャー・ド・ブルトゥイユ、ノーフォーク伯並びにイースト・アングリア伯ラルフ・ド・ゲールらが反乱を起こした。これは征服後の伯が依然として大きな軍事的・地域的基盤を持っていたことを示す一方で、ウィリアム1世がそのような伯の独立性を危険視していたことをも示している。反乱ののち、王は伯たちの力を抑えつつ、すべての土地保有者を自らに直接従わせる原理を押し出した。1086年のいわゆる 『ソールズベリーの誓い』(Salisbury Oath) は、その象徴的な表れとして理解できる[49]。
したがって、ノルマン征服後の伯爵位は、州単位の高位官職という古い性格を部分的に残しつつも、しだいに王権と緊張関係を持つ軍事的・領主的な高位貴族位へ傾いていったといえる。征服王は伯を必要としたが、同時にその力を抑え込み、王への直接忠誠の原理を伯の上に置こうとしたのである[50]。
スティーブン治世における伯爵位の政治化
12世紀に入ると、Earl は地方統治の枠をさらに超え、王位継承や政権の帰趨を左右する高位貴族位としての性格をいっそう強めた。その典型が、スティーブンの治世(1135年–1154年)の内乱、いわゆる無政府時代である。パクストンによれば、スティーブンの即位後、王位請求者マティルダを支えた最強の人物は、彼女の異父弟であるグロスター伯ロバートであった。ロバートはいったんスティーブン王に忠誠を誓ったが、1138年にマティルダ皇后のために反乱を起こし、以後その軍事的・政治的中核となった。ここでは伯爵は、もはや単なる地方長官ではなく、王位請求そのものを現実に支える軍事・財政・人的基盤として機能している[51]。
同じくスティーブン治世の宮廷内対立においても、伯やそれに準ずる高位諸侯の役割は決定的であった。パクストンは、1139年の宮廷分裂に際して、ソールズベリー司教ロジャーを中心とする行政派に対し、ワレラン伯・ロバート伯らボーモント兄弟が対抗し、この対立がスティーブン政権を弱体化させたと述べている。ここで注目すべきなのは、伯爵位が単に地方で兵を率いるだけではなく、王の宮廷・財政・行政そのものの再編に関わる政権中枢の地位になっていることである[52]。
さらに、1141年のリンカーンの戦い では、スティーブンが捕虜となり、マティルダが一時ロンドンに進むが、そののち彼女は都市民や有力者との関係を損ね、最終的にはグロスター伯ロバートの捕虜交換によってスティーブンが復位する。パクストンの叙述では、この一連の経過は、王位の帰属が王個人の正統性だけでなく、伯ら有力諸侯の忠誠・軍事力・交渉能力に大きく左右されていたことを示している。つまりこの時代の伯爵位は、地方統治の職である以上に、政権の存立そのものを支える、あるいは崩すことのできる高位貴族位となっていた[53] 。
このように、ノルマン征服後から12世紀半ばにかけて、イングランドの伯爵位は、王の地方官という古い性格を完全に失ったわけではないものの、その重心を明らかに変化させた。すなわち伯は、地方支配を担う高位官職であると同時に、王位継承・内乱・宮廷政治・軍事連合を左右する高位貴族として振る舞うようになり、その意味で伯爵位は、アングロ・サクソン期の州官である ealdorman、デーン征服下で再編された earl を経て、王国政治の中核に位置する大貴族位へと大きく傾いていった。こうして12世紀には、伯爵位はのちのイングランド貴族制における高位爵位として制度的に定着していく[54][55]。

爵位としての Earl
ノルマン征服後、伯爵位は先述の通り、イングランド王国の新たな貴族秩序のなかで再編され、1072年にはウィリアム1世の甥ヒューにチェスター伯爵(Earl of Chester)が与えられた。これは、アングロ・サクソン期以来の伯の伝統を受け継ぎつつ、ノルマン朝の支配体制のもとで伯爵位が高位貴族位としてあらためて制度化されていく過程を示す例の一つである[注釈 1]。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている[58][59]。
14世紀初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron(男爵)だけだった[60]。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった[60][61]。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった[62]。ヨーロッパ大陸から輸入された公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、子爵(Viscount)が国王勅許状で貴族称号として与えられるようになったことでBaronも貴族称号(「男爵」と訳される物)へと変化していった[62]。
イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度があり、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても伯爵位は第3位として存在する。
侯爵から男爵までの貴族は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○卿 (Lord ○○)」と呼ぶことができる(公爵のみは卿で呼ぶことはできず「○○公 (Duke of ○○)」のみ)。例えばカーナーヴォン伯爵の「カーナーヴォン」は爵位名であって家名はハーバートだが、カーナーヴォン卿と呼び、ハーバート卿にはならない。また日本の華族は一つしか爵位を持たないが、イギリスでは一人で複数の爵位を持つことが多い。中でも公爵・侯爵・伯爵の嫡男は当主の持つ従属爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する[63]。
伯爵の長男は従属爵位を持つがゆえにLord(卿、ロード)の敬称がつけられ、次男以下にはHonorable(オナラブル)がつけられる。娘にはLady(レディ)がつけられる。
英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった[64]。
有爵者は貴族院議員になりえる。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない[65]。
現存する伯爵家一覧
イングランド貴族
シュルーズベリー伯爵(1442年)・タルボット伯爵(1784年グレートブリテン貴族)・ウォーターフォード伯爵(1446年アイルランド貴族):チェットウィンド=タルボット家
ダービー伯爵(1485年):スタンリー家
ハンティンドン伯爵(1529年):ヘイスティング=バス家
ペンブルック伯爵(1551年)・モンゴメリー伯爵(1605年):ハーバート家
デヴォン伯爵(1553年):コートネイ家
リンカン伯爵(1572年):ファインズ=クリントン家
サフォーク伯爵(1603年)・バークシャー伯爵(1626年):ハワード家
デンビー伯爵(1622年)・デズモンド伯爵(1628年アイルランド貴族):フィールディング家ウェストモーランド伯爵(1624年):フェーン家
リンジー伯爵(1626年)・アビンドン伯爵(1682年):バーティ家
ウィンチルシー伯爵(1628年)・ノッティンガム伯爵(1681年):フィンチ=ハットン家
サンドウィッチ伯爵(1660年):モンタギュー家
エセックス伯爵(1661年):カペル家
カーライル伯爵(1661年):ハワード家
シャフツベリ伯爵(1672年):アシュリー=クーパー家ポートランド伯爵(1689年):ベンティンク家
スカーバラ伯爵(1690年):ラムリー家
アルベマール伯爵(1697年):ケッペル家
コヴェントリー伯爵(1697年):コヴェントリー家
ジャージー伯爵(1697年):ヴィリアーズ家
スコットランド貴族
クロフォード伯爵(1398年)・バルカレス伯爵(1651年):リンジー家
エロル伯爵(1453年):ヘイ家
サザーランド伯爵(1230年or1275年or1347年):サザーランド家
マー伯爵(1114年頃):マー家
ロシズ伯爵(1458年):レズリー家
モートン伯爵(1458年):ダグラス家
バカン伯爵(1469年):アースキン家
エグリントン伯爵(1508年)・ウィントン伯爵(1859年連合王国貴族):モンゴメリー家
ケイスネス伯爵(1455年):シンクレア家
マー伯爵(1565年)・ケリー伯爵(1619年):アースキン家
マリ伯爵(1562年):ステュアート家
ヒューム伯爵(1605年):ダグラス=ヒューム家
パース伯爵(1605年):ドラモンド家
ストラスモア=キングホーン伯爵(1606年):ボーズ=ライアン家
ハディントン伯爵(1619年):バイリー=ハミルトン家
ギャロウェイ伯爵(1623年):ステュワート家
ローダーデール伯爵(1624年):メイトランド家
リンジー伯爵(1633年):リンジー=ベテューヌ家
ラウドン伯爵(1633年):アベニュー=ヘイスティングス家
キノール伯爵(1633年):ヘイ家
エルギン伯爵(1633年)・キンカーディン伯爵(1643年:ブルース家
ウィームズ伯爵(1633年)・マーチ伯爵(1697年):チャータリス家
ダルハウジー伯爵(1633年):ラムゼイ家
エアリー伯爵(1639年):オグルヴィ家
リーブン伯爵(1641年)・メルヴィル伯爵(1690年):レズリー=メルヴィル家
ディザート伯爵(1643年):グラント家
セルカーク伯爵(1646年):ダグラス=ハミルトン家
ノーセスク伯爵(1647年):カーネギー家
ダンディー伯爵(1660年):スクリームジョア家
ニューバラ伯爵(1660年):ロスピリョージ家(イタリア貴族ロスピリョージ公爵)
アナンデイル=ハートフェル伯爵(1662年):ホープ=ジョンストン家
ダンドナルド伯爵(1669年):コクラン家
キントーア伯爵(1677年):キース家
ダンモア伯爵(1686年):マレー家
オークニー伯爵(1696年):セント・ジョン家
シーフィールド伯爵(1701年):スタッドリー家
ステア伯爵(1703年):ダーリンプル家
ローズベリー伯爵(1703年)・ミッドロージアン伯爵(1911年連合王国貴族):プリムローズ家
グラスゴー伯爵(1703年):ボイル家
グレートブリテン貴族
フェラーズ伯爵(1711年):シャーリー家
ダートマス伯爵(1711年):レッグ家
タンカーヴィル伯爵(1714年):ベネット家
アイルズフォード伯爵(1714年):フィンチ=ナイトレイ家
マクルズフィールド伯爵(1721年):パーカー家
ウォルドグレイヴ伯爵(1729年):ウォルドグレイヴ家
ハリントン伯爵(1742年):スタンホープ家
ポーツマス伯爵(1743年):ウォロップ家
ウォリック伯爵(1759年)・ブルック伯爵(1746年):グレヴィル家
バッキンガムシャー伯爵(1746年):ホバート=ハムデン家
ギルフォード伯爵(1752年):ノース家
ハードウィック伯爵(1754年):ヨーク家
イルチェスター伯爵(1756年):フォックス=ストラングウェイズ家
デ・ラ・ウェア伯爵(1761年):ウェスト家
ラドナー伯爵(1765年):プリーデル・ブーベリー家
スペンサー伯爵(1765年):スペンサー家
バサースト伯爵(1772年):バサースト家
クラレンドン伯爵(1776年):ヴィリアーズ家
マンスフィールド伯爵(1776年)・マンスフィールド伯爵(1792年):マレー家
マウント・エッジカム伯爵(1789年):エッジカム家
フォーテスキュー伯爵(1789年):フォーテスキュー家
カーナーヴォン伯爵(1793年):ハーバート家
カドガン伯爵(1800年):カドガン家
マームズベリー伯爵(1800年):ハリス家
アイルランド貴族
コーク伯爵(1620年)・オレリー伯爵(1660年):ボイル家
ウェストミーズ伯爵(1621年):ニュージェント家
ミーズ伯爵(1627年):ブラバゾン家- キャバン伯爵(1647年):ランバート家
ドロヘダ伯爵(1661年):ムーア家
グラナード伯爵(1684年):フォーブス家
ダーンリー伯爵(1725年):ブライ家
ベスバラ伯爵(1739年):ポンソンビー家
キャリック伯爵(1748年):バトラー家
シャノン伯爵(1756年):ボイル家
アラン伯爵(1762年):ゴア家
コータウン伯爵(1762年):ストップフォード家
メクスバラ伯爵(1766年):サヴィル家
ウィンタートン伯爵(1766年):ターナー家
キングストン伯爵(1768年):テニソン家
ローデン伯爵(1771年):ジョスリン家
リズバーン伯爵(1776年):ヴォーン家
クランウィリアム伯爵(1776年):ミード家
アントリム伯爵(1785年):マクドネル家
ロングフォード伯爵(1785年):パケナム家
ポーターリントン伯爵(1785年):ドーソン=ダマー家
メイヨー伯爵(1785年):バーク家
アンズリー伯爵(1789年):アンズリー家
エニスキレン伯爵(1789年):コール家
アーン伯爵(1789年):クライトン家
ルーカン伯爵(1795年):ビンガム家
ベルモア伯爵(1797年):ローリー=コリー家
キャッスル・ステュアート伯爵(1800年):ステュアート家
ドナウモア伯爵(1800年):ヒーリー=ハッチンソン家
カリドン伯爵(1800年):アレクサンダー家
リムリック伯爵(1803年):ペリー家
クランカーティ伯爵(1803年):ル・プア・トレンチ家
ゴスフォード伯爵(1806年):アチソン家
ロス伯爵(1806年):パーソンズ家
ノーマントン伯爵(1806年):エイガー家
キルモリー伯爵(1822年):ニーダム家
リストーエル伯爵(1822年):ヘア家
ノーベリー伯爵(1827年):グラハム=トーラー家
ランファーリー伯爵(1831年):ノックス家
連合王国貴族
ロスリン伯爵(1801年):セント・クレア=アースキン家
クレイヴェン伯爵(1801年):クレイヴェン家
オンズロー伯爵(1801年):オンズロー家
ロムニー伯爵(1801年):マーシャム家
チチェスター伯爵(1801年):ペラム家
ウィルトン伯爵(1801年):グローヴナー家
ポウィス伯爵(1804年):ハーバート家
ネルソン伯爵(1805年):ネルソン家
グレイ伯爵(1806年):グレイ家
ロンズデール伯爵(1807年):ラウザー家
ハロービー伯爵(1809年):ライダー家
ハーウッド伯爵(1812年):ラッセルズ家
ミントー伯爵(1813年):エリオット=マーレイ=キニンマウンド家
カスカート伯爵(1814年):カスカート家
ヴェルラム伯爵(1815年):グリムストン家
セント・ジャーマンズ伯爵(1815年):エリオット家
モーレイ伯爵(1815年):パーカー家
ブラッドフォード伯爵(1815年):ブリッジマン家
エルドン伯爵(1821年):スコット家
ハウ伯爵(1821年):カーゾン家
ストラドブルック伯爵(1821年):ラウス家
ストーのテンプル伯爵(1821年):テンプル=ゴア=ラントン家
コーダー伯爵(1827年):キャンベル家
リッチフィールド伯爵(1831年):アンソン家
ダラム伯爵(1833年):ラムトン家
グランヴィル伯爵(1833年):ルーソン=ゴア家
エフィンガム伯爵(1837年):ハワード家
デュシー伯爵(1837年):モートン家
ヤーバラ伯爵(1837年):ペラム家
レスター伯爵(1837年):コーク家
ゲインズバラ伯爵(1841年):ノエル家
ストラフォード伯爵(1847年):ビング家
コッテナム伯爵(1850年):ペピス家
カウリー伯爵(1857年):ウェルズリー家
ダドリー伯爵(1860年):ウォード家
ラッセル伯爵(1861年):ラッセル家
クロマーティ伯爵(1861年):マッケンジー家
キンバリー伯爵(1866年):ウッドハウス家
ウォーンクリフ伯爵(1876年):モンタギュー=ステュアート=ウォートリー家
ケアンズ伯爵(1878年):ケアンズ家
リットン伯爵(1880年):リットン家
セルボーン伯爵(1882年):パーマー家
イデスリー伯爵(1885年):ノースコート家
クランブルック伯爵(1892年):ゲイソン=ハーディ家
クローマー伯爵(1901年):ベアリング家
プリマス伯爵(1905年):ウィンザー=クライヴ家
リヴァプール伯爵(1905年):フォジャム家
セント・アルドウィン伯爵(1915年):ヒックス=ビーチ家
ビーティー伯爵(1919年):ビーティー家
ヘイグ伯爵(1919年):ヘイグ家
アイヴァー伯爵(1919年):ギネス家
バルフォア伯爵(1922年):バルフォア家
オックスフォード=アスキス伯爵(1925年):アスキス家
ジェリコー伯爵(1925年):ジェリコー家
インチケープ伯爵(1929年):マッカイ家
ピール伯爵(1929年):ピール家
ビュードリーのボールドウィン伯爵(1937年):ボールドウィン家
ハリファックス伯爵(1944年):ウッド家
ゴーリー伯爵(1945年):リヴァン家
ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵(1945年):ロイド・ジョージ家
ビルマのマウントバッテン伯爵(1947年):ナッチブル家
チュニスのアレグザンダー伯爵(1952年):アレクサンダー家
スウィントン伯爵(1955年):カンリフ=リスター家
アトリー伯爵(1955年):アトリー家
ウォールトン伯爵(1956年):マーキス家
スノードン伯爵(1961年):アームストロング=ジョーンズ家
ストックトン伯爵(1984年):マクミラン家 ※2015年現在、臣民に対して与えられた最後の世襲貴族爵位
ウェセックス伯爵(1999年)・フォーファー伯爵(2019年):王族エドワード王子の爵位
ドイツ語圏の伯爵
日本の伯爵
華族の伯爵
旧暦明治2年6月17日(1869年7月25日)の行政官達542号において公家と武家の最上層の大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した[66]。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が新暦1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された[67]。
1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ[68]、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり[69]、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された[70]。伯爵は公侯爵に次ぐ第三位であり、位階では従二位相当である[71]。叙爵内規では伯爵の叙爵基準について「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上 国家二勲功アル者」と定めていた[72]。伯爵家の数は1884年時点では76家(華族家の総数509家)、1907年には100家(同903家)、1928年時に108家(同954家)、1947年時には105家(889家)だった[73]。
中間の爵位である伯爵は様々な面で分岐点になっていた。例えば後に詳述するが貴族院議員は公侯爵が無選挙・無給・終身、伯爵以下が互選・有給・任期7年となっていた。新年歌会始の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた[74]。宮中女官は伯爵以下の華族の娘が務めることが多かった。近代前、宮中女官は平堂上の公家の娘が務めており(摂家・清華家・大臣家の娘は女官にはならなかった)、明治後に平堂上に相当する家格が伯爵家・子爵家だったため伯爵以下の娘たちがやっていた[75]。女官には典侍、掌侍、命婦、女嬬といった序列があり、例外もあるが基本的に人事は出身家の爵位で決まり、伯爵家の娘が上位の役職に就き、子爵家・男爵家の娘は下位の役職に配置されるのが普通だった[76]。
1886年(明治19年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、1909年(明治42年)時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない[77]。
1907年(明治40年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった[78]。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより伯爵位を含めた華族制度は廃止された。
貴族院における伯爵
1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)[79]。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった[80]。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった[81]。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった[82]。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった[83]。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる[84]。
伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており[85]、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵議員17人、子爵議員70人、男爵議員56人案)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)に伯爵20人以内、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出され、最終的には伯爵議員の議席数は18議席となった[86]。
伯爵以下議員は同爵者間の互選になっていたため貴族院内は爵位ごとに院内会派が形成されるようになり、伯爵議員たちははじめ伯爵会を形成。さらに1908年には扶桑会を形成した[87]。
伯爵家の一覧
皇族の臣籍降下による伯爵家
叙爵内規上では皇族の臣籍降下に伴って与えられる爵位は公爵となっているが、実際には侯爵または伯爵だった。時期によって叙爵方針に差異が存在する。皇室典範制定前に様々な事象により離脱した皇族は、宮家から最初に離脱した者でも伯爵に叙された(家教王は、明治維新前に一度臣籍降下し、復籍後再度離脱している)。上野家と二荒家は北白川宮能久親王の落胤だったため皇籍に入れることはできなかったが、臣籍降下後の伯爵叙爵を実質的前倒しにする形で幼少期に伯爵に叙されている。皇室典範制定前は明治維新以前の運用方針により四世襲親王家当主以外は臣籍降下し華族に列するとしたが、家教王以外に事例は無く、間もなく典範制定により永世皇族制が採用され原則として男子の臣籍降下は無くなった。上野・二荒の二例は皇族内規を準用した例外的な運用である。皇室典範が増補された1899年(明治32年)以降臣籍降下制度が典範に正式に制定された。これ以降は原則として離脱した皇族は侯爵に叙されている。しかし増補後も臣籍降下が進まず皇室財政の圧迫が懸念され「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された1920年(大正9年)以降、降下前の宮家から二人目以降の降下である場合、通常伯爵が与えられた。
旧公家の伯爵家
叙爵内規では旧公家華族から伯爵になる者について「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上」と定められている。「大納言迄宣任ノ例多キ」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家[注釈 2]」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家[注釈 3]」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家[注釈 4]」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家[注釈 5]」のことである[88]。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。「直任」が内規では「宣任」に置き換えられたのは、この直任の例が一回でもあれば該当させるためである[89]。
- 名家
上記のうち東久世家や壬生家は本来は子爵の家格(あるいは叙爵基準に満たない家格)であったが、維新の功績により伯爵位を与えられた[90]。羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りであり[91]、叙爵内規は羽林家・名家・半家、あるいは旧家・新家の区別、また藤原氏であるか否かで爵位の基準を定めていない。半家から伯爵が出ていないのは、半家がすべて非藤原氏で家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)で大納言直任の条件を満たせなかったのが原因であり、藤原氏でないと伯爵以上になれないという定めがあったわけではない[92]。ただし、桜町院政期の寛延3年(1750年)に定められた官位御定によって、新家は原則として参議・納言には任官できないことが定められており[93]、新家が叙爵内規の要件を満たすことは事実上不可能であった。
旧大名家の伯爵家
叙爵内規は旧大名華族から伯爵になる者について「徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上」と定めている。5万石以上の基準は表高や内高といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する[94]。明治2年2月15日(1869年)に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである[95]。現米15万石以上は侯爵となるので、現米15万石未満から同5万石以上の旧大名家が伯爵である。
- 旧中藩知事(現米5万石以上)
- 阿部家(備後福山藩現米5万5583石(表高11万石))
- 有馬家(筑後久留米藩現米11万8190石(表高21万石))
- 井伊家(近江彦根藩現米9万4030石(表高20万石))
- 上杉家(出羽米沢藩現米6万196石(表高14万7248石))
- 小笠原家(豊前小倉藩現米8万8170石(表高15万石))
- 奥平家(豊前中津藩現米5万3000石(表高10万石))
- 酒井家(播磨姫路藩現米8万3210石(表高15万石))
- 酒井家(出羽大泉藩現米6万9379石(表高12万石))
- 酒井家(若狭小浜藩現米5万5730石(表高10万3558石))
- 立花家(筑後柳河藩現米6万6890石(表高11万600石))
- 伊達家(陸奥仙台藩現米6万7740石(表高28万石))
- 津軽家(陸奥弘前藩現米14万1345石(表高10万石))
- 藤堂家(伊勢津藩現米12万4270石(表高32万3950石))
- 戸田家(美濃大垣藩現米5万320石(表高10万石))
- 中川家(豊後岡藩現米5万2400石(表高7万440石))
- 南部家(陸奥盛岡藩現米6万8580石(表高13万石))
- 久松家(伊予松山藩現米11万748石(表高15万石))
- 堀田家(下総佐倉藩現米5万100石(表高11万石))
- 前田家(越中富山藩現米6万6010石(表高10万石))
- 松平家(出雲松江藩現米14万5340石(表高18万6000石))
- 松平家(上野前橋藩現米5万4450石(表高17万石))
- 松平家(讃岐高松藩現米10万5760石(表高12万石))
- 溝口家(越後新発田藩現米7万920石(表高10万石))
- 柳沢家(大和郡山藩現米5万9490石(表高15万1288石))
- 現米5万石未満だが陞爵・特例により伯爵
多くが維新の功績による陞爵であるが、龍岡藩大給家は大給恒(旧名:松平乗謨)の近代賞勲制度確立の功労によるもの。平戸藩松浦家は現米5万石の要件にわずかに及ばなかったが、松浦詮は明治天皇の従兄弟の親にあたる(曾祖父・松浦清の娘が中山慶子を産んだため)という皇室との深い縁により特例で伯爵になった[96]。対馬藩宗家も現米5万石に満たなかったが、朝鮮外交を担った独自の歴史的立場や国主格であったことが考慮され特例措置として伯爵に叙された[97]。
僧家の伯爵家
叙爵内規上彼らに関する特別な定めは無いので「国家二勲功アル者」として伯爵になっていると思われる。
勲功による伯爵家
叙爵内規における「国家ニ勲功アル者」のうち、男爵・子爵より上位の功績を認められた家系である。初期に伯爵を授けられた「維新の元勲」に近い層から、子爵からの陞爵(爵位が上がること)によって伯爵となった層まで、近代日本の軍事・政治・経済の各界を牽引した最高指導者層が含まれる[98]。
- 軍人(伯爵家)
軍人における伯爵家は、陸海軍の最高幹部(元帥、大将級)や、大規模戦役における統帥・作戦立案の直接的な功績を認められた者が中心である。日清・日露戦争における多大な貢献に加え、軍政・国政の要職(陸海軍大臣、内閣総理大臣など)を務め、国家運営の根幹を担った「軍の重鎮」が名を連ねる。
- 政官系・実業家(伯爵家)
政治・行政・外交において、国家の独立維持や制度の確立に多大な貢献をした最高指導者層である。維新の混乱期から行政実務を支えた者や、条約改正、立憲政治の確立などに心血を注いだ者、あるいは外交の枢要を担い国際的地位を向上させた人々である。いずれも、軍事以外の側面から「国家の近代化」を完遂させた指導者層である。
- 伊地知家 (薩摩藩)
- 伊東家 (肥前国・子爵から陞爵)
- 板垣家 (土佐藩)
- 内田家 (熊本藩・子爵から陞爵)
- 大木家 (佐賀藩)
- 勝家 (武蔵国・幕臣)
- 金子家 (福岡藩・子爵から陞爵)
- 香川家 (水戸藩・子爵から陞爵)
- 清浦家 (肥後国・子爵から陞爵)
- 後藤家 (土佐藩)
- 後藤家 (仙台藩・子爵から陞爵)
- 佐野家 (佐賀藩・子爵から陞爵)
- 副島家 (佐賀藩)
- 田中家 (土佐藩・子爵から陞爵)
- 珍田家 (弘前藩・子爵から陞爵)
- 寺島家 (薩摩藩)
- 土方家 (土佐藩・子爵から陞爵)
- 林友幸家 (長州藩・子爵から陞爵)
- 林董家 (佐倉藩・子爵から陞爵)
- 平田家 (米沢藩・子爵から陞爵)
- 広沢家 (長州藩)
- 牧野家 (薩摩藩・子爵から陞爵)
- 陸奥家 (紀州藩・子爵から陞爵)
- 吉井家 (薩摩藩)
- 芳川家 (徳島藩・子爵から陞爵)
- 渡辺家 (諏訪藩・子爵から陞爵)
朝鮮貴族の伯爵
日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れなかったので、朝鮮貴族の実質的な最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった[99][100]。
朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが[99]、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた[101]。
朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名あり、うち伯爵に叙されたのは李址鎔、閔泳璘、李完用の3名である[100]。後に李完用は侯爵に陞爵し、閔泳璘は刑により爵位をはく奪された[102]。当初子爵だった宋秉畯(野田秉畯)は原敬の推挙で伯爵に陞爵した[103]。また高羲敬も伯爵に陞爵している[102]。
中国の伯爵
殷の時代に姫昌が「西伯」に任じられているが、これは殷の西方の盟主・覇者を意味するとされている。
西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「伯」は五つある爵の上から三番目に位置づけている[105]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、伯は大夫が受けるものとしている[106]。『礼記』・『孟子』とともに伯は七十里四方の領地をもつものと定義している[106]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[107]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[108]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[109]。
漢代においては二十等爵制が敷かれ、「伯」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、伯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[110]。食邑は大国なら千二百戸、六十里四方の土地、次国なら千戸、五十五里四方の土地が与えられることとなっている[110]。その後西晋および東晋でも爵位は存続している[111]。
南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[112]。
伯爵の例
竹林の七賢の一人である山濤は、武帝受禅の際に子から伯(新沓伯)へ陞爵している[113]。また当時の晋王司馬昭の弟であった司馬亮、司馬伷らも咸熙元年に「伯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後はいずれも諸侯王となった[114]。