アリー・ハーディー
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アリー・ハーディー | |
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イスラームの書法によるアリー・ハーディー | |
| 生誕 |
828年9月8日 ヒジャーズ マディーナ |
| 死没 |
868年7月21日 サーマッラー |
| 死因 | 毒 |
| 活動期間 | 33年 |
| 著名な実績 | シーア派の10番目のイマーム。 イスラム教の預言者ムハンマドの家族から。 |
| 後任者 | ハサン・アスカリー |
| 子供 | ハサン・アスカリー 他4名 |
| 親 |
ムハンマド・タキー(父親) サマネ・マグリビエ(母親) |
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秀逸な記事 |
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ポータル・イスラーム |
| シーア派 |
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| 教説 |
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イマーム • マフディー ガイバ • タキーヤ |
| 分派 |
| イマーム |
アリー・ハーディー(アラビア語: الإمام علي الهادي; 828年9月8日 – 868年7月21日)は、シーア派・十二イマーム派の第10代イマーム。名はアリー・イブン・ムハンマド・イブン・アリー。
自宅軟禁
新カリフ・ムタワッキルの治世となると848年、アリー・ハーディーはバグダードへと召還され、息子ハサン・アスカリーとともにサーマッラーに家を与えられ、そこで軟禁された。鄭重な扱いを受けたものの、支持者との連絡を事実上絶たれる状況に置かれたのである。アリー・ハーディーが軟禁されたこの時期、シーア派への大規模な迫害がおこなわれた。サーマッラーでアリー・ハーディーが住んだ街区は「アル=アスカル」と呼ばれる。これはこの地区に軍部隊(=アスカル)が駐留していたことによるもので、またこのことから、アリーおよび息子ハサンも、それぞれ「アスカリー」と呼ばれ、また両者をあわせて「アスカリヤイン」(両アスカリー)と呼ばれる。こうした状況で、カリフ・ムタワッキルはアリー・ハーディーの殺害を少なくともひとたびは目論見たが、これは奇蹟によって失敗したという[1]。
逸話と伝承
アリー・ハーディーはペルシア語、スラブ語やインドの言葉、ナバタイ語に通じ、さらに不図の嵐、さらには人の死などさまざまなことを正確に予言した人物として記述される。これに関してカリフ・ムタワッキルがアリー・ハーディーを辱め獄に落としたとき、アリーはカリフを呪詛して3日以内にカリフが亡くなるとし、この予言は正確に現実のものとなったということが伝えられている。また、ムタワッキルの面前にイマーム・フサインの娘ザイナブを詐称する女性がいたが、アリー・ハーディーは、ライオンはアリーの子孫を襲わないということを証明するためにライオンの巣に降りてゆき、これをみて恐れた女性の覆いものをはぎ取って、その偽りを暴いたという伝承もある。
アリー・ハーディーの著述としては、人間の自由意志についての宗教的論文その他の短いテキストが、ハッラーニーの著述に引用されているものがある[2]。
十代目イマーム・ハーディー曰く、
「現世では財産を持つことで、来世では善行を保持することで人々は尊敬される」 [3]