アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)
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メルゲン・ゲゲンの『アルタントプチ』(モンゴル語: Алтан товч, ᠠᠯᠲᠠᠨ
ᠲᠣᠪᠴᠢ)は、メルゲン・ゲゲンという人物によって編纂されたモンゴル年代期の一つ。『アルタン・トプチ』と呼ばれる年代記はこの他に著者不明のもの(『アルタン・トプチ (著者不明)』)と、ロブサンダンジンによるもの(『アルタン・トプチ (ロブサンダンジン)』)があるため、編者の名を付して「メルゲン・ゲゲンの『アルタン・トプチ』」と呼ばれる。
著者メルゲン・ゲゲンの本名は、ロブサンダムビジャルサン(Lobsangdambijalsan)で、1717年にウラド中旗のロブジャン(Lobjang)の子として生まれたと推定されている[1]。ウラド中旗の前身のウラド部はチンギス・カンの弟のジョチ・カサルの15世孫が創始したと伝えられるため、メルゲン・ゲゲンはカサルの遠い末裔に当たる[1]。
ロブサンダムビジャルサンは1721年に5歳にしてウラド前旗のメルゲン廟(広法寺)第3代座主となり、そこで仏教やモンゴル語、チベット語、サンスクリット語、満州語、漢語といった諸言語に通じるようになり、本書を編纂するに至ったという[2]。本書のテキストについては、まずロシアのポズドネーフがその一部(第16〜25章)を公刊した。 これに続き、日本の江実もメルゲン廟からこのテキストを得て、それをもとに小林高四郎がテキストの比較を行っている[2]。
以後、レニングラード(現サンクトペテルブルク)大学所蔵の写本をインドのラグ・ビラが活字で公刊、ブリヤートのモンゴル学者バルダンジャポフは同じテキストをロシア語の訳注を付してファクシミリ版で刊行、中国内蒙古の斉木徳道示吉・孟和宝音・格日楽らが張家口本の活字版テキストとそのローマ字転写・漢訳注を付したものを刊行するなど、テキストの刊行が相継いだ[2]。またナランバトを主任とする『梅日葛根(メルゲンゲゲン)研究』編集委員会によって研究集が刊行されている[3]。
内容
メルゲン・ゲゲンは本書の編纂の目的について以下のように自ら語っている[3]。
| 「 | チョクト・イテゲル・ホトクト・エルデニが言うには、簡略なる内容を大になして見て、聞かせ捧げることを、聞く者が望むために、始めて諸々のことを語れ、と言ったこと、カシュミールのバンディタ・サラン・バジャルが言うには、すべての書、論であっても、如何なる言葉、行いであっても、そのことを語らなければ、それらを如何なる人が用いようか、と言ったため。 | 」 |
年代記は2部33章から構成されており、内容は下記の通りである[4]。
- 第一部
- 序章(第一章)
- 世界の創造(第二章)
- 人生が出現した経緯(第三章)
- インドの王統(第四章〜第七章)
- チベットの王統と仏教、チベットと唐との関係(第七章〜第一五章)
- 第二部
- モンゴル部の祖ボルテチノア(ボルテ・チノ)からテムジンとその兄弟の生誕(第一六章〜第一九章)
- カサル、オッチギンの活躍(第二〇章〜第二一章)
- チンギス・カンによるケレイトのオン・カン、ナイマンのタヤン・カンらの討伐、西夏征服とその死(第二二章〜第二五章)
- いわゆる明代モンゴルの王統(第二五章〜第二六章)
- カサルの後裔の系譜(第二七章〜第三二章)
- 結語(第三三章)
本書独自の記述の一つとして、モンゴルの伝説上の人物にも中国の年号を当て、その年代を確定させようとしていることが挙げられる。例えば、ボルテ・チノは「唐国の徳宗の貞元2年(786年)」に生まれたとし、またボドンチャルは「宋国の高祖の開宝3年(970年)」に生まれたとそれぞれ記している[5]。
本書最大の特徴と言えるのは、モンゴル帝国の歴代ハーンについては記述が非常に簡潔である一方、カサル家の活躍について詳細に記していることにある。このため、カサル家については他の年代期に見られない独自の記述を含み、マンクイ王のように本書でしか存在を確認できない人物も存在する。