日本の歴史学者和田清は、ウリヤンハイ三衛の一つ泰寧衛がモンゴル側から「往流(Ongliγud)」と呼ばれていたことに注目し、「岡留部」は泰寧衛のことであると考えた。またダライスン・ゴデン・ハーンの治世にチャハルが旧泰寧衛領に移住したことを考察する中で、恐らくはチャハル諸部がマンクイ王を滅ぼすことでその故地に移住したものと推定する。
泰寧衛がチャハルの東遷によって解体・併合されたことは事実であるが、その解体の過程は後続の研究者によって武力を伴わず進行したと明らかにされており、「マンクイ王=泰寧衛の首長で、その敗退を以て泰寧衛は滅亡した」という説は現在受け入れられていない。
中国内モンゴルの研究者、Buyandelgerは東道諸王(チンギス・カンの諸弟を始祖とする王家の総称)についての考察を行う中で、「往流(Ongliγud)」が本来は東道諸王の総称の一つであって特定の部族を指す呼称ではないこと、しかしながら明末清初の混乱期を経て「翁牛特(オンニュート)」がカチウン家の末裔が支配する集団の名称として定着したことを指摘した[8]。
同じく内モンゴルの研究者、玉芝はBuyandelgerの議論を発展継承させ、清代の「翁牛特(オンニュート)」の起源として「カチウン家の末裔の三人兄弟にオンニュート・イスト・カラチェリク三部族がそれぞれ分封された」と伝えられることに注目し、三兄弟の父親こそがマンクイ王で、「岡留部三営」はオンニュート・イスト・カラチェリク三部族を指すものと考証した。
上記の諸説に対し、胡日査は従来と大きく異なる見解を2020年の論文で発表した。従来の研究であまり用いられていなかったモンゴル年代記として、『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』という史料が存在するが、この史料はカサル家の末裔が著したものでカサル家の系譜について非常に詳しいという特徴を持つ。『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』の中には「ボルハイの子のオルダフハイの子はMangqui、Uyangqu……ら12人」との記述があり、胡日査はこのマンクイ(Mangqui)こそ漢文史料上の満会・満恵・莽晦と同一人物と指摘する。
マンクイの父のオルダフハイはダヤン・ハーンに従ってダラン・テリグンの戦いなどで活躍したことで著名な人物で、その息子であればダヤン・ハーンの後継者であるボディ・アラク・ハーンと同時代人としても不自然ではない。また『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』の挙げるマンクイの弟たちの中には、より成立の早い『アルタン・トプチ (著者不明)』でボディ・アラク・ハーンがウリヤンハン討伐で率いていたとされるオヤンホ(Uyangqu)の名も挙がっており、『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』の記述が史実に基づくものであることを裏付ける。また、『訳語』は東北にいる諸酋として「把児威・塔崩・袒希・莽晦」の名を列挙しているが、この内 「把児威」はバルグ(Balgh)に、「塔崩」はホルチン左翼に属するオトクのタブン(Tabun)に、それぞれ相当するものとみられる。これを踏まえ、胡日査は「岡留部三営」がバルグ・タブン等によって構成されていたと論じている。