マンクイ

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マンクイモンゴル語: Mangqui、生没年不詳)は、チンギス・カンの弟のカチウンの末裔で、15世紀初頭に活躍したモンゴル人諸侯の一人。

明代の漢文史料での表記は満会(mǎnhuì)・満恵(mǎnhuì)・莽晦(mǎnghuì)など。その出自については諸説あるが、少なくともチンギス・カンの諸弟を始祖とする東道諸王の末裔であることは疑いなく、近年では『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』に見えるカサル家のMangquiと同一人物と見る説が提唱されている。

マンクイ王は漢文史料に断片的にその活動が記録されており、概ねボディ・アラク・ハーンアルタン・ハーンと同時代の人間であったことが知られている。まず、16世紀半ばのモンゴル高原の諸部族を伝える『北虜考』や『九辺考』といった史料には、「岡留部は三つの営からなり、その酋長は満会(満恵)王と言った」との記述が見える[1][2]。「岡留部」はチャハルの東に位置するとされ、またハルハなどとともに紹介されることから、左翼部に属する集団であったことが確認される[3]

次に、1520年代から1530年代にかけて行われたウリヤンハン討伐において、ボディ・アラク・ハーンが率いた諸酋の中に「葬悔王」も含まれていたことが 『訳語』に記されている[4]。『北虜考』『九辺考』の記述とあわせて、マンクイ王はボディ・アラク・ハーンの勢力と隣接し、友好的な関係にあったことが窺える[3]。また『訳語』の別の箇所では、東北にいる諸酋として「把児威・塔崩・袒希・莽晦」らの名が挙げられている[3][5]

最後に『万暦武功録』によると、1546年(嘉靖25年)4月に「アルタンと「満会黒韃子」 が対立し、互いに攻めあった」という。またその後、「アルタンは数十万の兵を率いて満会を威嚇した」ともあり、マンクイ王は1540年代にアルタン ハーンと対立して没落したようである[1]

出自に関する諸説

脚注

参考文献

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