アルトランシュテット条約 (1707年)
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宗教改革はシュレージエンに大きな影響を与えていたが、18世紀にはハプスブルク家の皇帝により同地の対抗宗教改革が行われた[1]。対抗改革は上シュレージエンでの成果が特に大きく、18世紀の初めにはシュレージエン住民の約半分がカトリック信徒であり、約1,000の教会がプロテスタントからローマ・カトリックに変えられた[1]。1648年のヴェストファーレン条約はブジェク公国、レグニツァ公国、ジェンビツェ公国、オレシニツァ公国、ヴォウフ、ヴロツワフのプロテスタントしか保護しなかった[1]。またヤヴォル公国、グウォグフ公国、シュフィドニツァ公国のプロテスタントは城壁の外に3か所の「平和教会」(Friedenskirchen)を保有することを許された[1]。しかし、1675年以降に対抗宗教改革を免れたのはヴロツワフとオレシニツァ公国だけであり、スウェーデンや神聖ローマ帝国のプロテスタント諸侯の反対にもかかわらず、平和教会は解散させられた[2]。
大北方戦争中、カール12世率いるスウェーデン軍はシュレージエンを通ってザクセン選帝侯領を占領、彼に敵対した選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世に1706年のアルトランシュテット条約の締結を強制した[3]。
