アルバロ・エラメリス
From Wikipedia, the free encyclopedia
アルバロはエラメルの息子で、レコンキスタに参加し、アラバ、ブルゴス、ラ・リオハの再移住に積極的に取り組んだ貴族で、エラメルとエラメリュリの2つの町はアルバロの名から名付けられた[1]。923年、アルバロはレオン王オルドーニョ2世と共にナヘラとビゲラの征服に参加し、同年10月20日、ラ・リオハのサンタ・コロマにある修道院の創建に関する特許状を承認した[2][3]。アルバロが初めてアラバ伯として特許状に記録されたのは929年9月28日であったが[4]、アルバロはそれ以前からアラバ伯であった可能性がある[1]。920年7月26日のヴァルデジュンケラの戦いにおいてレオン王国とナバラ王国の軍が敗北した後、オルドーニョ2世はムニオ・ベラス(919年5月18日にアラバ伯であったことが確認される[5])に代わってアラバ伯となった可能性がある[6]。また、アルバロがランタロン伯でもあったことは、929年8月28日付の特許状で確認できる[7]。
931年1月11日の特許状において「アラバ伯アルバロ・エラメリス」として最後に確認される[8]。同年夏、レオン王アルフォンソ4世は妃オネカの死後に退位した。オネカはアルバロの妻サンチャの姉妹であった。アルフォンソ4世の弟ラミロ2世が王位を継承した。アルフォンソ4世はサアグン修道院で修道士となったが、その後悔いて、同年冬に王位を取り戻そうとし[9]、932年の夏に再び王位を取り戻そうとした。義兄弟アルフォンソ4世を支持していたアルバロが[10]、アルフォンソ4世とラミロ2世の間の争いの中で殺されたのか、あるいは伯領の統治をラミロ2世から委ねられたカスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスにアラバ伯位を奪われたのかは不明である[8]。アルバロの妃であったサンチャとその新しい夫であるフェルナン・ゴンサレスが935年8月5日に最初に一緒に確認され、2人の子供であるゴンサロとサンチョがそれまでにすでに生まれているので、アルバロは932年までには死去していたとみられる[11]。