レオン王国
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| レオン王国 | |||||
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Regno de Leon Reinu de Llión Reino de León Reino de León Reino de Leão Regnum Legionense Reino de Lhion | |||||
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レオン王国の位置(1095年) | |||||
| 言語 | アストゥリアス・レオン語[1]、ラテン語、カスティーリャ語、ガリシア・ポルトガル語、モサラベ語 | ||||
| 国教 | カトリック | ||||
| 宗教 |
イスラム教スンナ派 ユダヤ教 | ||||
| 首都 | レオン | ||||
| 国王 | |||||
| 911年 - 914年 | ガルシア1世 | ||||
| 1188年 - 1230年 | アルフォンソ9世 | ||||
| 変遷 | |||||
| アストゥリアス王アルフォンソ3世が息子3人に国土を分割相続させた | 910年 | ||||
| カスティーリャ王フェルナンド3世がレオン王に即位したことで同君連合となる | 1230年 | ||||
| 現在 |
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レオン王国(レオンおうこく、スペイン語: Reino de León、アストゥリアス語: Reinu de Llión)は、イベリア半島に存在した王国である。レオン・アストゥリアス王国ともいう。
イベリア半島に侵入したイスラム勢力の侵攻で崩壊した西ゴート王国の貴族ペラーヨがアストゥリアス地方に建てたアストゥリアス王国が起源になっている。
成立
910年にアストゥリアス王アルフォンソ3世の3人の息子が王国を分割相続し、長子のガルシア1世が相続した領域がレオン王国(レオン帝国[2])となった。宮廷はレオンに置かれた。
この分割相続で成立したレオン・ガリシア・アストゥリアスはそれぞれ別の王を戴きつつ、レオン王ガルシア1世がそれらをまとめて緩やかな連合を形成した。その後、914年に次弟のガリシア王オルドーニョ、さらに924年に末弟のアストゥリアス王フルエーラがレオン王位を継承したことで、三王国はレオン王国のもとに統合された。
同時期のイスパニア辺境は弱小国家の集まりであり、イスラム教国に対抗することなど不可能で、アル・アンダルスとは友好的あるいは従属的な関係を結んでおり、ナバラ王国もイスラム教国に対し友好的・従属的地位にとどまり、アラゴン伯領もレコンキスタ精神からはほど遠い状態にあった[3]。
一方のアル・アンダルスでは、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世やハカム2世の宮廷は北部キリスト教国のみならず遠くビザンツ帝国や神聖ローマ帝国からも使節を迎え[4]、ナバラ王国やレオン王国に遠征してこれを屈伏させた[5]。
ナバラ王国による占領
11世紀にはいると、サンチョ3世の下でナバラ王国が台頭した。王は巧みな婚姻政策でカスティーリャ伯領・レオン王国などの周辺キリスト教国を併合し、「イスパニア皇帝」を自称した[6]。
サンチョは1034年にレオンを占領すると、「サンチョ皇帝」と刻まれたコインを発行した[7]。
カスティーリャへの併合
その後、配下のカスティーリャ伯が独立し王国となると勢力を弱めていく。1037年、レオン王アルフォンソ5世の娘サンチャと結婚していたカスティーリャ王フェルナンド1世がレオン王国の継承権を獲得すると、レオン王国はカスティーリャ王国に併合されカスティーリャ=レオン王国になる。
フェルナンド1世の死後、遺領は分割され、カスティーリャを長男サンチョ2世が、レオンを次男アルフォンソ6世が、ガリシアを三男ガルシア2世が相続した。サンチョはアルフォンソとガリシアを攻めたが、アルフォンソを裏切ってレオンを征服した。しかし、サンチョは1072年に暗殺され、ガルシアはその翌年捕らえられたため、アルフォンソ6世はカスティーリャとガリシアの王位を継ぎ、カスティーリャ=レオン王国を再び統合した。
その後1157年にアルフォンソ7世の死後の分割相続でフェルナンド2世がレオン王として即位しレオン王国が復活するが、1230年にカスティーリャ王フェルナンド3世がレオン王位を継承したことで王位はカスティーリャと再統合され、レオン王国は実質的には消滅した。ただし名目上はスペイン諸領邦のひとつとしてフェリペ5世の時代までその名を残している。
