アルメニア系アメリカ人

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アルメニアアメリカ人(アルメニアけいアメリカじん、英語: Armenian Americansアルメニア語: Ամերիկահայեր)は、アルメニア人のディアスポラの中でもロシアのアルメニア人に次いで大きなコミュニティを形成している[1]アメリカ合衆国への最初のアルメニア人移民の波は、オスマン帝国1890年代半ばに発生したハミディイェ虐殺ロシア語版英語版や、1915年に発生したアルメニア人虐殺を逃れてのもので、数千人のアルメニア人がアメリカへと渡った。次の波は1960年代から1980年代にかけてのもので、トルコイランレバノンなどの中東各国から、政情不安を理由にアルメニア人たちが移住してきた。同時期にはソビエト・アルメニアからの移住も始まり、ソビエト連邦の崩壊を経てアルメニアの独立後も、経済的理由からアメリカ移住の動きは続いている。

2011年アメリカ地域社会調査英語版による推定では、アメリカ国民のうち48万3366人が、何らかの形でアルメニア人をルーツに持つという。一方、その他の機関やメディアの推定では、アルメニア系アメリカ人の数は80万人から150万人とされている。最大のアルメニア人コミュニティはロサンゼルス大都市圏のもので、2000年の国勢調査英語版では16万6498人がそこに暮らしている。これは同年の調査におけるアルメニア系人の総人口である38万5488人の40パーセントを超える。なかでもグレンデールはアルメニア人コミュニティの中心として広く知られている[2]

また、アルメニア系アメリカ人は、世界のアルメニア人ディアスポラのうち最も強い政治的影響力を持っている。アメリカ・アルメニア民族委員会英語版アメリカ・アルメニア人会議英語版などの機関は、合衆国政府アルメニア人虐殺の承認英語版を求めるなど、アメリカ合衆国とアルメニアの関係英語版の強化を目指して活動している。

2000年の国勢調査英語版では、アルメニア系アメリカ人の総人口は38万5488人であり[3]、翌年にアメリカ地域社会調査英語版が行った推定では、アメリカ国民のうち48万3366人が、何らかの形でアルメニア人をルーツに持つという[4]。その他、ドイツ民族学者であるカロリーネ・トーン[5]フォーダム大学のハロルド・タクーシアン[6] が80万人、ミシガン大学ディアボーン英語版のデニス・R・パパジアンが100万人[7]、『アルメニアン・ミラー=スペクテイター英語版[8] やドイツの「シュピーゲル・オンラインドイツ語版[9]、『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス英語版[10] など各紙が120万人、『USニューズ&ワールド・レポート』の「少数民族・先住民族ワールド・ディレクトリ」[11] および『ロサンゼルス・タイムズ[12] が140万人、アメリカ・アルメニア民族委員会英語版[13]、『アルメニアン・ウィークリー英語版[14]、『アルメニアン・レポーター英語版[15]、そしてロイター[16] などが、150万人という最も高い見積もりを出している。

歴史

前史

記録に残っている限りで最初にアルメニア人北米大陸を訪れたのは1618年のことで、この時にはペルシャ出身のマルティンというタバコ栽培業者が、バージニア植民地ジェームズタウンへ定住した[17][7]1653年から翌年にかけては、コンスタンティノープルからの2人のアルメニア人が、養蚕のためバージニア植民地へ招かれている[17][7]。その後、17世紀から18世紀にかけても、ごく僅かにアルメニアからの移民が記録に残されている。しかし、ほとんどの場合彼らは単身で入植し、またコミュニティを形成することもなかった。1770年までには70人以上のアルメニア人が入植を果たした[17]1830年代には、オスマン帝国の下で迫害を受けたキリスト教徒を救済しようとする宣教師の運動によって、キリキア西アルメニア英語版からのアルメニア移民の小さな波が起こっている。例えば、コンスタンティノープルにおけるアメリカの宣教学校の生徒であったハチグ・オスカニアン英語版は、より高い教育を求めて1834年にアメリカへ渡ったが[17]、彼は後に『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン英語版』で働き、ニューヨーク出版協会英語版の会長となった[18]。そして、多くのアルメニア人もオスカニアンを追って、教育のために渡米した[19]

南北戦争の際には、3人のアルメニア人医師(シメオン・ミナシアン、ガラベド・ガルスチアン、バロニグ・マテヴォシアン)がフィラデルフィアの軍病院で働いている[20]。一方、戦闘行為に関わったアルメニア人としては、連合海軍英語版に所属していたハチャドーア・ポール・ガラベディアン英語版のみが知られている。ガラベディアンはオスマン帝国のロドスト出身の帰化人で、1864年から翌年8月の名誉除隊まで、封鎖船ゼラニウム英語版グランド・ガルフ英語版三等補助技師英語版(後に将校)として乗艦した[21]

1870年代末には、ニューヨークプロビデンスウースターなどアメリカ各地に小規模なアルメニア人コミュニティが存在し、1880年代末にはそれらの人口は1500人に達した。彼らの大部分は、オスマン帝国全土で活動していたアメリカ福音宣教団からの若い男子学生であり、そのうち約40パーセントマムレト=ウル=アジズ州英語版の出身だった[17]。しかし、1899年以前には移民たちは民族ではなく出身国によって分類されていたため、アルメニア人が民族として注目されることはなかった[22]1820年から1898年までにアメリカへ渡ったアルメニア人の数は、およそ4000人と推定されている[23]

最初の波

1891年に建造された、ウースターの救世主教会英語版(アメリカ最初のアルメニア人教会[24]

19世紀末になると、それまでとは比較にならない人数のアルメニア人がアメリカへ渡ってくるようになったが、その主な契機となったのは、オスマン帝国で1890年代半ばに発生したハミディイェ虐殺ロシア語版英語版と、続く1915年に発生したアルメニア人虐殺だった[25]。この移民の波以前には、アルメニア系アメリカ人の数は1500人から3000人で、その大部分は非熟練労働者であった[26][27][28]

1890年代を通して、1万2000人を超すアルメニア人がオスマン帝国から逃れてきた[29]。豊かな農業地帯であったフレズノを除いては、最初期のアルメニア移民たちはニューヨーク、プロビデンス、ウースターやボストンといった合衆国北東部の工業地帯へ定着した[27]ロシア帝国出身のアルメニア人はこの時期の移民のなかでも少数派だったが、それはロシアでのアルメニア人の扱いがオスマンでのそれよりも良かったことによる[30]。この頃には、アメリカや故国での様々な問題に対処するために、アルメニア人たちによる政党も結成されていた[19]1910年代も、オスマン出身のアルメニア移民の数は漸増したが、これには1912年から翌年にかけてのバルカン戦争や、1919年に発生したアダナ虐殺英語版も影響している[31]第一次世界大戦の開戦までに渡米したアルメニア人の数は、おおよそ6万人である[30]

移民帰化局英語版の調べによると、1899年から1917年にかけて入国したアルメニア人の数は5万4057人で、彼らの主な受け入れ元は、オスマン(4万6474人)、ロシア(3034人)、カナダ(1577人)、イギリス(914人)、エジプト(894人)だった。また、行き先として彼らが挙げた場所は、ニューヨーク州(1万7391人)、マサチューセッツ州(1万4192人)、ロードアイランド州(4923人)、イリノイ州(3313人)、カリフォルニア州(2564人)、ニュージャージー州(2115人)、ペンシルベニア州(2002人)、ミシガン州(1371人)となっている[32]。この時点で大きなアルメニア人コミュニティが形成されていたのは、ニューヨーク、フレズノ、ウースター、ボストン、フィラデルフィア、シカゴジャージーシティデトロイトロサンゼルストロイクリーブランドなどであった[33]

1919年までには7万7980人ほどのアルメニア人がアメリカに居住していたと推定され[32]1920年には空前の数のアルメニア人が流入したが[30]、その後1924年移民法の制定によって、南欧東欧からのアルメニア移民は規制の対象とされた[7]。第一次大戦前の移民は多くが若者と男性であったが、大戦後には、対照的にそのほとんどが女性と子供となっている[30]。また、アルメニア移民たちは、故郷の同じ町や村の出身者同士でコミュニティを形成するという点で、イタリア移民と似た特徴を持っていた。しかし、この傾向は第二次世界大戦後にはほぼ見られなくなっている[34]。移民たちは、差別や居住制限などの反アルメニア感情英語版にも直面し、中部カリフォルニアに住んでいたアルメニア人は「フレズノのインディアン」や「下層ユダヤ人」などとも呼ばれた[35]

第二の波

1976年7月のニューヨーク、アメリカ合衆国200周年記念英語版の際のアルメニア系ダンサーたち

第一次大戦前後の波に次ぐアルメニア移民の2番目の波は、1940年代末のものである。ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為赤軍所属のアルメニア人兵士にも及んでいたが、1948年難民救済法英語版は、戦災者のアメリカへの移住を奨励した[36]。そして、1944年から1952年までの間に4739人のアルメニア人がアメリカへ渡った[23]。これを援助したのは、ジョージ・マーディキアン英語版による組織的なアルメニア人救援運動であった[37]

しかし、本格的なアルメニア移民の波の到来は、1965年移民国籍法英語版の制定を待たなければならない。この法の成立後、ソビエト連邦トルコレバノンイランなどの中東各国から多くのアルメニア人が、政情不安を逃れてアメリカへ渡った[37]1950年代のアルメニア移民の大半はソ連とトルコからの移民で、これには1955年にトルコで発生したイスタンブール・ポグロム英語版も影響している。

他方、1940年代のソビエト・アルメニアでは、虐殺を生き延びて本国へ帰還しながらも、社会に適応できない復員兵たちが発生していた。そして、ソビエト・アルメニアから主に西側諸国への大規模な移民の波が1956年から始まり、およそ3万人のアルメニア人が1960年から1984年までの間にアメリカへ渡った。1980年代末のペレストロイカ時代になると、さらに6万人が渡米した。最終的に、1956年から1989年までの間にソ連から出国したアルメニア人のうち80パーセントがアメリカへ渡り、その数は7万7000人と推定されている[38]

1975年に始まり、その後15年続いたレバノン内戦や、1979年イラン革命もまた、中東に住むアルメニア人のアメリカへの流入の原因となった[39]。これら中東諸国のアルメニア人コミュニティは充分に確立され結束していたが、現地住民の間に同化していたわけではなかった。レバノンとイランにおいてアルメニア人は議会にも少数民族として代表を送り、伝統的なアルメニアの文化ロシア語版を保持する一方で、容易に多言語を操りながら、多くの場合アルメニア本国の住人よりも豊かな暮らしを送っていた[7]。この中東からの新たな移民たちの多くはロサンゼルスへ定着し[40]、その地のアルメニア人コミュニティを再び活性化させた[41]1970年には約6万5000人のアルメニア人が南カリフォルニアに住み、1989年にはその数は約20万人になっていたと見積もられる[42]。その一方で、1980年の国勢調査英語版によれば、ロサンゼルス在住のアルメニア系人の数は5万2400人で、そのうち71.9パーセントが国外生まれ。さらなる内訳は14.7パーセントがイラン、14.3パーセントがソ連、11.5パーセントがレバノン、9.7パーセントがトルコ、11.7パーセントがその他中東諸国(エジプト、イラクパレスチナなど)の出身者となっている[43]

ソ連崩壊後

アルメニア系アメリカ人の人口推移
人口
1980[44]
212,621
1990[45]
308,096
2000[3]
385,488
2010[46]
474,559

ソビエト連邦の崩壊の直前から進行中にかけて、政治的、あるいは経済的な理由から、独立アルメニア共和国やその他の旧ソ連諸国からのアルメニア移民がアメリカへ渡り、全土のコミュニティへ散っていった[7]1988年アルメニア地震や、続くナゴルノ・カラバフ戦争中のエネルギー危機アルメニア語版は、70万人のアルメニア人が国外へ流出する原因となったが、そのうち大部分はロシアへ渡り、その他にもアメリカやヨーロッパへ渡った者もいた[47]1994年までに、中東からの移民を除いても年平均2000人のアルメニア人が渡米している[36]。また、中東からのアルメニア移民は、カリフォルニアにおけるアルメニア系人口の群を抜く高さに貢献している[48]1988年の『ニューヨーク・タイムズ』記事によると、中東からのアルメニア移民がグレンデールに定着するのを好む一方、ソ連からのアルメニア移民はハリウッドに住む傾向がみられるという[49]

2000年の国勢調査では、6万5280人のアルメニア出身者がアメリカに住み、うち5万7482人がカリフォルニア州に、1981人がニューヨーク州に、1155人がマサチューセッツ州に住むとされる[50]2011年のアメリカ地域社会調査によれば、アメリカには8万5150人のアルメニア出身者がおり、この数字は2000年と比べて約2万人増加している[51]。在アルメニア・アメリカ大使館によると、1995年から2012年までの間に2万1000人のアルメニア国民が、永住目的でアメリカへ渡ったという[52]

地理的分布

大部分のアルメニア系アメリカ人は、カリフォルニアや合衆国北東部の都市部に集住しており、合衆国中西部ではそれよりも少ない。2000年の国勢調査でアルメニア系人が最も集中していた都市は、ロサンゼルス、ニューヨーク、ボストンであり、州別に人口をみるとカリフォルニア州(20万4631人)、マサチューセッツ州(2万8595人)、ニューヨーク州(2万4460人)、ニュージャージー州(1万7094人)、ミシガン州(1万5746人)、フロリダ州(9226人)、ペンシルベニア州(8220人)、イリノイ州(7958人)、ロードアイランド州(6677人)、テキサス州(4941人)となっている[3]

カリフォルニア州

2000年のロサンゼルス郡におけるアルメニア系人の分布

カリフォルニア州に最初に到着したアルメニア人は、1874年にフレズノに定住した者である[53]。フレズノとセントラル・バレーはカリフォルニアにおけるアルメニア人コミュニティの中心地となっていたが、後の時代、とりわけ1960年代からは中東から相当数のアルメニア移民が渡米し、南カリフォルニアへ次々と集まっていった[54]

ロサンゼルスとその周辺は、アメリカ全土で最も、そして群を抜いて密度の高いアルメニア人コミュニティの存在する土地となっている。そこにはアルメニア系アメリカ人の全人口の半分弱が暮らし、アルメニア国外で最も人口の多いアルメニア人コミュニティが形成されている。南カリフォルニア在住のアルメニア系人人口の推定は25万人[55]、35万人[54]、40万人[5]、45万人[56]、50万人[7] と調査により様々であるが、2000年の国勢調査では15万2910人のアルメニア系人がロサンゼルス郡に住むとされている[57]。その11年後の2011年のアメリカ地域社会調査では、ロサンゼルスからロングビーチサンタアナにかけての地域に住むアルメニア系人の数は、21万4618人と、2000年から29パーセント増加している[58]。ロサンゼルス市単体でのアルメニア系人の人口は、2000年の時点で6万4997人であり[59]サンフェルナンド・バレーノースハリウッドヴァン・ナイズエンシノなどの地区に集中している[60]。2000年の10月6日には、イースト・ハリウッド英語版の一角のコミュニティが、住民や企業、学校、教会などの諸機関にアルメニア系のものが集中しているとして、ロサンゼルス市議会英語版によって「リトル・アルメニア英語版」と命名されている[61]

ロサンゼルス周辺では屋台から薬剤師、医師、歯科医、弁護士、仕立屋や美容師、機械工までがアルメニア語で利用でき、アルメニア語のテレビやラジオも複数の局が24時間放送を行っている[62]。このため、住民のなかにはアメリカ文化に完全に同化した者からアルメニア文化を完全に保持している者、そしてその中間に位置する者など、多様な個々人が存在する[62]1976年には、イスタンブール出身者による文化団体「イスタンブール・アルメニア人協会英語版」も組織されている[63](2011年の時点で南カリフォルニアに公称1000人以上のメンバーを持つ[64])。また、アルメニアの政党であるアルメニア革命連盟と関わりを持つスポーツ団体、ホメネテメンアルメニア語版は、アメリカでもスカウト運動などで活発な活動を行っており、そのアメリカ支部は1975年からロサンゼルスでスポーツ祭を開催している。2014年の時点でその祭典は300のチーム、3200人のアスリート、1100のスカウト団体と3万5000人の観客が参加する規模にまで成長している[65]

グレンデールは、アメリカ全土、そしてアルメニア国外で比較してもアルメニア人の密度が最も高い[66]

ダウンタウンLAから10キロメートル北のグレンデール市は、その人口20万人の4割がアルメニア系であるとされる[67][68][69]。2000年の国勢調査によると、グレンデールの住民の27パーセント、5万3840人が自身をアルメニア系であると規定している[59][70]。また、グレンデールはアルメニア出身者の比率が最も高い地域でもある[71]

その他、グレンデールとロサンゼルス以外の地域でアルメニア系人が集中しているのは、バーバンク(8312人)、パサデナ(4400人)、モンテベロ(2736人)、アルタデナ英語版(2134人)、ラ・クレセンタ=モントローズ英語版(1382人)などである[59]。モンテベロには、アメリカ最古にして最大とも言われるアルメニア人虐殺記念碑英語版が存在する[72]

合衆国西部で最初に大規模なアルメニア人コミュニティが形成された土地、フレズノは、オスマン出身の、多くが農民であった初期のアルメニア移民の目的地であった。アルメニア系人はフレズノ郡最大の少数民族となっているが、そのなかでも著名な者としては、作家のウィリアム・サローヤンがいる[73]。1988年の時点でのフレズノのアルメニア系人の人口は4万人であったが[49]、2000年の国勢調査ではフレズノ郡全体で9884人がアルメニア系人となっている[74]。市内の中心部は「旧アルメニア人街英語版」と称され、再開発が進んでいる[75]

カリフォルニア北部のアルメニア系人の人口は南部より少なく、アルメニア系人の大部分はサンフランシスコサンノゼオークランドに集中している。2000年の国勢調査ではサンフランシスコのアルメニア系人は2528人とされているが、実数はこれよりも多いと見積もられている[76][77][78]

合衆国北東部

1908年、ボストンでのアルメニア人家族

ニューヨークに最初のアルメニア人がやって来たのは19世紀からのことで、20世紀初頭にはニューヨーク州とマサチューセッツ州はアルメニア移民の主要な目的地となっていた。東20番街からレキシントン街3番街までの一帯にはアルメニア系人による小さなコミュニティと商店街があり、そこは1960年代までは「リトル・アルメニア」と呼ばれていた[79]。その地は1914年シンクレア・ルイスのデビュー作『我らがレン氏英語版』においても言及されている[80]2002年には、アルメニア系人の人口はトライステート地域英語版で15万人、クイーンズ区で5万人、マンハッタン区で1万人となっている[81]

ボストンに最初に辿り着いたアルメニア系人として知られているのは、ハンガリー出身のシュテパーン・ザードリであるが、ボストンには1880年代までアルメニア人コミュニティが築かれることはなかった[82]。しかし、現代ではボストンのアルメニア系人の数は5万人から7万人におよぶと推定されている[82][83]。2012年5月22日には、アルメニア人虐殺の犠牲者に捧げられたアルメニアン・ヘリテージ・パーク英語版が開園した[84]。また、ウォータータウンにはアルメニア図書館・博物館アルメニア語版が置かれるなど、ボストンのアルメニア系人の中心地となっており、そこには7000人から8000人のアルメニア系人が住むとも言われる[85][86]。しかし、2000年の国勢調査での数字は2708人のみである[87]

その他アルメニア系人の多く住む都市には、ウースター(1306人)、ベルモント英語版(1165人)、ウォルサム(1091人)がある[87]。一方でプロビデンスとフィラデルフィアにも19世末や20世紀初頭から続くアルメニア系人のコミュニティが存在し、現代ではフィラデルフィアには約1万500人[88]、プロビデンスには7000人以上のアルメニア系人が住む[88][89]

その他の地域

カリフォルニア州や合衆国北東部の他、中西部南部にもアルメニア人コミュニティは存在するが、それは前者のものと比べて格段に小規模なものである。

デトロイトにおける初期のアルメニア移民は、そのほとんどが労働者であった。その後、特に1960年代に入ると、中東からのアルメニア移民がミシガン州へ流れ込んだ。デトロイトのアルメニア人コミュニティは、教育水準も高く専門的で繁栄している、と形容されてきた[90]。現代では、そのアルメニア系人の数は2万2000人とされる[82]。シカゴにおいては、アルメニア人が最初に定住したのは19世紀末のことで、その数もごく僅かであったが、20世紀の間にアルメニア系人の人口は増加した[91]。今日ではその数は2万5000人とされる[77]2003年の時点では8000人以上のアルメニア系人がワシントンD.C.に住んでおり[92]、同地にはアメリカ・アルメニア人虐殺博物館英語版も建てられている。21世紀には、従来までのアルメニア系人地区の外に住む者も増加する傾向にある。例えば、ネバダ州のアルメニア系人の人口は、2000年の2880人から2010年の5845人にまで急増し、同じくフロリダ州では9226人から1万5856人へ、テキサス州では4941人から1万4459人まで増加している[93]

文化

言語

グレンデールのいくつかの横断歩道に、2011年から設けられた道路標示(上から、スペイン語、英語、アルメニア語)[94]

アルメニア系人は、アメリカ白人英語版への同化が最も進んでいない民族の一つであり、2000年の国勢調査では、彼らはその半数以上がアルメニア語を操るとされる(これと比較して、母国語を使用できるイタリア系人は6パーセント、ギリシャ系人英語版は32パーセント、アルバニア系人英語版は70パーセントである)[3][95]。アルメニア語は西部語東部語の2種類に大別されるが、アルメニア系アメリカ人の間ではこの両方が広範に使用されている[注 1]

1910年の時点では、アメリカ国内のアルメニア語話者数は2万3938人であったが、1920年には3万7647人、1930年には5万1741人、1940年には4万人、1960年には3万7270人、1970年には3万8323人と変遷している(ただし、この間の統計は国外出身者のみによる)[98]。1980年の国勢調査では、 アルメニア語話者の総数は10万634人であり、うち6万9995人が国外出身者となっている[99][100]1990年の国勢調査英語版では、30万8096人のアルメニア系人のうち、14万9694人がアルメニア語を母語と規定した。そして、アルメニア語話者のうちの多数である11万5057人が国外出身者であった[100][101]

2000年の国勢調査では、総数38万5488人のアルメニア系人のうち、20万2708人がアルメニア語を家庭で使用していると回答した。このうちの大多数である15万5237人がカリフォルニア州在住で、その他8575人がニューヨーク州、8091人がマサチューセッツ州の在住であった[3][95]。アルメニア語話者の3分の2が、ロサンゼルス郡が故郷であるとした[48]。2011年のアメリカ地域社会調査では、アルメニア語話者数は24万95人とされ、同調査で13万735人が英語を「とてもよく」知っている、10万9360人が「とてもよく」というほどではないが知っている、と回答した。その一方で、言語学者バート・ボー英語版1999年に、アメリカにおいてアルメニア語が深刻な絶滅の危機にある、と指摘している[102]

2007年の研究では、レバノン出身者の16パーセント、(ソビエト・アルメニアを含めた)アルメニア出身者の29パーセント、(アメリカ文化への同化が早いことで知られる[103])イラン出身者の31パーセント、トルコ出身者の36パーセントが英語に堪能ではなかった[104]。しかし、国外出身者の多くはマルチリンガルであり、アルメニア語と英語の他に少なくとも一つの言語を話す。例えば、アルメニア出身者はロシア語を、レバノンやシリアの出身者はアラビア語フランス語を、イラン出身者はペルシア語を、イスタンブール出身者はトルコ語を話す[7][64][105]

教育

イースト・ハリウッドのリトル・アルメニアに在するローズ&アレックス・ピリボス・アルメニア人学校英語版は、1000人以上の生徒を擁する、アメリカ最大のアルメニア人学校である

初期のアルメニア移民は、アメリカの各民族のなかでも識字率において最上位のグループに属し、76パーセントが識字能力を有した(これと比較して、南イタリア人は46パーセント、アシュケナジムは74パーセント、フィン人は99パーセントが識字能力を有していた)[106]。2007年の時点で、アメリカ生まれのアルメニア系人の41パーセントが少なくとも4年制教育を終えているが、この数字は国外出身者よりも低くなっている[104]

アメリカ最初のアルメニア人日曜学校は、1880年代にバーセグ・ヴァードゥキアンがニューヨークに開いたものであるが[107]、アルメニア語との2か国語による学校は、1960年代までにはアメリカ全土のコミュニティへ広がっていた。週日学校として最初のものは、1964年に設立されたフェッラヒアン・アルメニア人学校英語版であり[107]、この他に週末のみ開かれるアルメニア人学校の数は100を超える[7]1992年にグレンデールに開かれたマシュドツ大学は、2004年の時点でアメリカ唯一のアルメニア系の高等教育機関である[108]

宗教

アルメニア系アメリカ人の大部分は、アメリカ最大の非カルケドン派正教会アルメニア使徒教会の信徒であり[109]、アメリカ全土には90を超す使徒教会があるとされる[110]。アルメニア系人の80パーセントが使徒教会に属し、その他10パーセントがプロテスタント(なかでもアルメニア福音教会英語版)、3パーセントがアルメニア・カトリック教会ロシア語版の信徒である[18]。1993年の時点でアメリカに存在するアルメニア・プロテスタント教会は28か所、1990年の時点でカトリック教会は6か所である[111]。アルメニア系のカトリック勢力は弱小で、2011年の時点で信徒数は2万5000人程度と推定されている[112]

マンハッタン・ミッドタウン聖ヴァルタン・アルメニア大聖堂英語版

アルメニア使徒教会は世界最古の国教会であり、アルメニアが他国の支配下にあった時代も、アルメニア人のアイデンティティの中核となっていた[113]。各国のアルメニア人コミュニティも教会をその中心とするが、アメリカでは特にトルコ出身者にその傾向が強い[114]。アメリカ最初の使徒教会は、1891年ウースターに建造された救世主教会英語版であり[109]、1898年にカトリコスミクルティチ・フリミアン英語版によって教区が設けられた[24]1916年の時点では34の小教区に、主に男性からなる2万7450人の信徒を抱えていた。信徒が特に多い州は、マサチューセッツ、ミシガン、カリフォルニアとニューヨークであった[115]。西部教区は1927年に成立した[116]

1933年シカゴ万博の際には、東部教区首座主教レオン・ツーリアン英語版が、全アルメニアのカトリコスアルメニア語版の在するエチミアジンがソビエト・アルメニアに含まれていることを理由に、変更前のアルメニア国旗である第一共和国の旗の前でスピーチを行うことを拒否した。セレモニーに出席していた反ソ派のアルメニア革命連盟の党員は、ツーリアンのこの行動に反発し、同年のクリスマス・イブにニューヨークの聖十字アルメニア使徒教会英語版でツーリアンを暗殺するに至った[109][117]

第二次世界大戦後、大主教チラン・ナーソヤン英語版は、教区についての規則の制定、全国的な青年組織の創設、マンハッタンへの大聖堂建造計画の主導、使徒教会へのエキュメニズムの導入など、教会の再興に役割を果たした[118]冷戦最中の1957年10月12日には、1933年以来繋がりを持っていなかった数人の首座主教が、レバノンに置かれたキリキア総主教座英語版のもとに結集し、アルメニア革命連盟と接近した[55][109][116]。1950年代半ばには、移民の増加と使徒教会の建設ブームにより、アメリカ全土で新たなアルメニア人コミュニティが生まれている。最初のアメリカ生まれのアルメニア系司祭は1956年に任命され、1961年には聖ネルセス・アルメニア人神学校がイリノイ州に開かれた(後にニューヨークに移転)。使徒教会を担った新たな世代の力は、1966年から1990年にかけて首座主教として教区を指導したトルコム・マヌージアン英語版の働きにより、形となっていった[119]。この時代には大規模なアルメニア移民の流入も起こり、アルメニア人コミュニティの間で教会はその重要性を再び増していた。祖国アルメニアへの人道支援の必要のみならず、アメリカ全土、とりわけニューヨークやロサンゼルスに多くみられた難民に対する奉仕活動もまた、教会からアルメニアへ物資や医薬品を提供するための基金、アルメニア救済基金英語版の創設へ繋がっていった[113]

2014年現在、使徒教会西部教区首座主教は2003年に選出されたホヴナン・ダーデリアン英語版[120]、東部教区首座主教は1990年に選出されたハジャグ・バーサミアン英語版である[121]

メディア

アメリカで発行されるアルメニア系新聞は300紙を超える[19][122]。アメリカ最初のアルメニア語新聞は、ハイガズ・エギニアンによって1888年にジャージーシティで発行された月刊紙『アレガク』である[123]。『アレガク』はほどなくして廃刊したが、その後もエギニアンは1899年にニューヨークで週刊紙『ディクリスフランス語版』 を、1902年にフレズノで週刊紙『カガカツィ』(西海岸最初のアルメニア語新聞)を発行するなど、アルメニア系人の出版界に大きな影響を遺した[123]

アルメニア系の新聞はアルメニアの各政党とも関わりが強い。アルメニア革命連盟の系統にある新聞には、ボストンの『ハイレニク英語版』(日刊紙、1899年創刊)とその姉妹紙『アルメニアン・ウィークリー』(英字週刊紙、1938年創刊)、同じくボストンの『アルメニアン・レビュー英語版』(英字季刊紙、1948年創刊)、グレンデールの『アスバレズ英語版』(日刊紙、1908年創刊)がある[123]社会民主フンチャク党英語版系の新聞には、ニュージャージーの『エリタサルド・ハヤスタンアルメニア語版』(月刊紙、1902年創刊)やパサデナの『マシス英語版』(週刊紙、1981年創刊)があり、アルメニア民主自由党英語版系の新聞にも、パサデナの『ノル・オル英語版』(週刊紙、1922年創刊)やボストンの『バイカル英語版』(週刊紙、1922年創刊)がある[123]。これら優勢な政党の新聞の他にも、『プロレタル英語版』のような共産党系の新聞や、アルメニア語を用いたトルコ系の新聞までも存在した[123]

2014年には、アルメニア系人を対象としたリアリティ番組グレンデール・ライフ英語版』の放送が開始された[124]。しかしこの番組については、内容が不道徳でありアルメニア民族の名誉を汚すものであるとして、放送の停止を求める署名活動も行われている[124]

社会

アメリカにおいて、国外出身のアルメニア系人は主に "Hayastantsis"(アルメニア出身者)、"Parskayes"(イラン出身者)、"Beirutsis"ベイルート出身者)という3つのグループに大別される[125][126]。また、カリフォルニア大学ロサンゼルス校によるアルメニア系人についての1990年の調査では、トルコ出身者は個人事業主である割合が最も高い(約3分の1[104])にもかかわらず、社会経済的地位において最低の位置を占めている一方で、アルメニア出身者とイラン出身者は最高の地位を占める傾向にある[127]

2010年メディケイド詐欺英語版のような、アルメニア系人による組織犯罪は、多くのメディアの注目を集めてきた[128][129][130]。また、200人ほどのアルメニア系アメリカ人によるギャングアルメニアン・パワー」が、1980年代末からロサンゼルス郡で活動している[131]。その一方で、人口の27パーセントをアルメニア系人が占めるグレンデールにおいて2006年に発生した犯罪のうち、アルメニア系人によるものは17パーセントに留まっている[48]

政治

モンテベロ虐殺記念碑(アメリカ最古にして最大のアルメニア人虐殺追悼記念碑とされる[72]

19世紀末から20世紀初頭にかけて大きな勢力であったアルメニアの政党は、アルメニア革命連盟(ダシュナク党)、社会民主フンチャク党、アルメナカン党英語版(後のアルメニア民主自由党)の3者であり、これらはアメリカへ渡った後も長らく党組織の基盤を維持していた[132]。そして1920年にアルメニア第一共和国がソ連の体制に組み込まれた際、第一共和国の支配政党であったダシュナク党はこれに反対し、対するフンチャク党とアルメナカン党はソ連を支持する立場に回った[55]。しかし、1988年のアルメニア地震の際や、ソ連崩壊後のナゴルノ・カラバフ戦争の際には、アルメニア系アメリカ人の政治的諸勢力も団結をみせている[49]

アルメニア系人のなかでも、レバノン出身者は元来から活発なコミュニティを有していたため、他国出身者より政治的な傾向が強い[133]

ロビー活動

アルメニア系アメリカ人は、ロシアのアルメニア人には規模で劣るながらも、世界のアルメニア人ディアスポラのうち最も強い政治的影響力を持っている[134]。そして、アルメニア・ロビーはアメリカの民族系ロビーのなかでも最も強力な集団の一つであり[135]、その影響力はイスラエル・ロビー英語版に次ぐとされる[7]アメリカ・アルメニア人会議英語版やアメリカ・アルメニア民族委員会などの機関は、合衆国大統領に対し、アルメニアへの経済的援助を増額し、トルコへの経済的、軍事的支援は削減するよう求めている。実際に、1992年から2010年までの間にアメリカがアルメニアに対して行った援助は約20億ドルに達し、これは国民一人当たりでみると旧ソ連諸国のなかでも最高額である[136]。しかし、2010年代以降ではアルメニアに対する援助額は減少しており、カラバフ問題でアルメニアと敵対関係にあるアゼルバイジャンへの援助額は増大している。

また、アルメニア・ロビーは1915年のアルメニア人虐殺の記憶を喚起する活動も行っている[137]。『フォーリン・サービス・ジャーナル英語版』の編集者であるショーン・ドーマンも、アルメニア・ロビーの最大の目的はアメリカ合衆国におけるアルメニア人虐殺の承認英語版にある、と分析する。この問題については、アメリカの公的文書のいくつかが、1915年から1923年にかけてアルメニア人に起きた出来事を「ジェノサイド」と形容し[138][139][140][141]、1981年4月22日の演説では、ロナルド・レーガン大統領も「ジェノサイド」という言葉を用いている[142]。そして2010年5月4日には、合衆国上院外交委員会が1915年のアルメニア人虐殺を「ジェノサイド」と規定した[143]。また、アメリカ50州のうち、1915年から1923年にかけての出来事を「ジェノサイド」であると宣言したのは、2014年の時点で41州に上る[144]アルメニア民族研究所英語版は、アメリカには30のアルメニア人虐殺記念碑が存在する、としている[145]

著名な人物

脚注

参考文献

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