ヘッセン大公ルートヴィヒ2世とその妃ヴィルヘルミーネの四男(第5子)として、ダルムシュタットで生まれた。全名はアレクサンダー・ルートヴィヒ・ゲオルク・フリードリヒ・エミール(Alexander Ludwig Georg Friedrich Emil)。大公の子供たちのうち、アレクサンダーとマリー(のちのロシア皇后マリア)の2人は、母ヴィルヘルミーネとその愛人アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・スナルクラン・ド・グランシー男爵との不義の子供だった。
成長すると、アレクサンダーは大公家の男子のならいとして軍人になり、ロシア軍に所属して輝かしい戦歴を重ねた。彼はのち聖ゲオルギー勲章(ロシア語版)を皇帝から授けられた。妹マリーが皇太子妃であることは、彼にとって不利な条件ではなかったのは事実である。
このまま何事もなくいけば軍人としての出世は間違いなかったが、妹の女官ユリア・ハウケ伯爵夫人との恋が醜聞となったことから、それ以上の栄達はなくなった。ユリアは「伯爵夫人」の称号をもつドイツ系ポーランド人女性で、皇帝がポーランド立憲王国で任じた国防副大臣ヤン・マウリツィ・ハウケ伯爵の娘だった。当時、ニコライ1世は自分の姪をアレクサンダーと結婚させようと考えており、このロマンスを聞きつけると、2人の結婚を禁じてしまった。ヨーロッパの君主一家の一員が、一伯爵程度の下流貴族と結婚するなど考えられないことだった。
アレクサンダーは自分の将来を熟考しイギリスへ渡るが、ほどなくロシアへ戻り、サンクトペテルブルクからユリアと駆け落ちした。2人は1851年にプロイセンのブレスラウで正式に結婚した。
2人はヘッセンへ戻ったが、アレクサンダーの長兄ルートヴィヒ3世大公はユリアの爵位の低さに不機嫌になった。ユリアは大公により「バッテンベルク伯爵夫人」(アレクサンダー夫婦が最初隠遁していた、ヘッセン北部の小さな町の名にちなむ)の称号を授けられたが、今後生まれる2人の子供たちには大公家の継承権は与えられないことになった。ユリアはのち「大公子の妃」のランクに高められ、夫妻はダルムシュタットに住むようになった。
継承権のない夫妻は、静かな生活をおくった。2人は主としてハイリゲンベルク城(ヘッセン南部、ユーゲンハイム近郊)に住んだ。
アレクサンダーは1888年に亡くなり、ユリア妃はその7年後にシューロス・ハイリゲンベルクで亡くなった。