ユリア・ハウケ
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生涯
ポーランド会議王国の将軍ヤン・マウリツィ・ハウケと、ワルシャワ公国軍医総監を務めた外科医フランツ・レオポルト・ラフォンテーヌの娘ゾフィー・ラフォンテーヌの間の第10子・三女・末娘として生まれた。ドイツ・ヘッセン地方に起源を持つハウケ家は、ユリアが生まれた翌1826年に貴族に列した。父はザクセン地方ラーデベルク近郊の村ザイファースドルフで生まれ[1]、一家転住先のポーランドで職業軍人となり、ナポレオン軍に属してイタリア、ドイツ、スペインで戦闘に従事した経験を持つ。母方祖父もシュヴァーベン地方ビべラッハ・アン・デア・リース出身のドイツ人だった。父は1815年よりポーランドを支配することになったロシア帝国の皇帝ニコライ1世の覚えめでたく、軍事大臣代行に抜擢され、1826年には貴族に叙せられ、1829年には伯爵に昇叙された。1830年にワルシャワで11月蜂起が発生した際、父は皇帝の兄君でポーランド総督を務めていたコンスタンチン・パヴロヴィチ大公を守ろうとした。そして反乱軍に与する士官学校生たちの集団に囲まれ、指揮官となるよう求められたとき、反乱を「愚昧で児戯に等しい沙汰」と非難したため、妻、そしてユリアを含む下の3人の子供たちの前で、19発の銃弾を撃たれて即死した。母は夫の惨死のショックで後を追うように亡くなった。両親を失ったユリアら幼い遺児たちは皇帝ニコライ1世の被後見人とされ、サンクトペテルブルク宮廷で育てられた。
成人後、皇帝の長男・皇太子アレクサンドル・ニコラエヴィチ大公の妻マリア・アレクサンドロヴナの女官となる。マリア皇太子妃はドイツのヘッセン=ダルムシュタット家の出身で、ユリアの祖母マリア・ザロメア・シュヴェッペンホイザーはかつて、皇太子妃の曾祖母であるヘッセン=ダルムシュタット方伯夫人ヘンリエッテ・カロリーネの家中に召使(下女)として仕えたことがあったが、孫のユリアは貴族女官として皇太子妃に仕える立場だった。ユリアは、皇太子妃の兄で妹の輿入れに伴ってロシア軍に移籍し、騎兵大将となっていたアレクサンダー・フォン・ヘッセン大公子と相思相愛の仲になった。皇太子は義兄が女官との結婚を望んでいることに猛反対し、皇帝もこれを認めなかったので、アレクサンダー大公子はロシア軍を辞してダルムシュタットに戻り、2人の兄と話し合いのうえ結婚への賛意を取り付けた。話し合いが終わると、大公子はプロイセン王国領シレジアのブレスラウに急行し、先に同市に到着していたユリアと再会した。このとき、ユリアは大公子の子を婚前妊娠しており、妊娠5カ月目に入っていた。2人は1851年10月28日、そのままブレスラウで結婚した。
ユリアは平民として生まれ、父親の貴族叙位と伯爵昇叙によって女伯爵となっていたため、アレクサンダー大公子の配偶者としては争いの余地なく身分が釣り合わず、貴賤結婚となった。ユリアの父方ハウケ家は、ヴェッツラーで帝国最高法院の判事たちに奉仕するペデル(寮監)だった玄祖父の代までしか遡ることができなかった。嫁入り先のダルムシュタットでユーリエ・ハウケ女伯爵(Gräfin Julie Hauke)と呼ばれた[2]ユリアは、結婚から1週間余り後の1851年11月5日、夫の長兄であるヘッセン大公ルートヴィヒ3世から、中世以来絶えて空位となっていた領主号であるバッテンベルク女伯(Gräfin von Battenberg)の称号[3]及び「伯家の殿下」の敬称を授与された。7年後の1858年、大公ルートヴィヒ3世と妻マティルデ・カロリーネ大公妃の銀婚式の恩典として、ユリアはバッテンベルク女侯(Fürstin von Battenberg)に昇叙され、敬称も「侯家の殿下」に格上げされた。ユリアと彼女の5人の子供たちは、国際的には「プリンス」「プリンセス」の称号で呼ばれる立場となったが、身分と格式の厳格な中央ヨーロッパのドイツ語圏では、ヘッセン家に次々と生じてきた継承権のない分家筋の最も新しい一家に過ぎず、正統なヘッセン家の成員とは絶対的な身分差があった。ユリアの夫アレクサンダー大公子は、生涯ヘッセン大公子の称号と身位を保持し、妻子と同じ家名を名乗ることはなかった。
ユリアはカトリック信徒として生まれ育ったが、1875年5月に子供や夫と同じ福音派に改宗した。
彼女は1895年に亡くなり、遺骸は前年1894年に完成したばかりだった霊廟に、1888年に死去していた夫アレクサンダー大公子の遺骸と一緒に安置された。大公子の遺骸は当初、1869年から1870年にかけて完成したダルムシュタット東郊ローゼンヘーエ公園内のヘッセン大公家旧霊廟に埋葬されていたが、この際に妻の隣に移された。ユリアは貴賤婚配偶者ゆえに大公家霊廟に埋葬される資格を認められず、それゆえ夫婦で隣り合って眠るために、ユーゲンハイムのハイリゲンベルク女子修道院址敷地内の墓苑クロイツガルテン(Kreuzgarten)に、新たに夫婦のための霊廟を用意する必要があったのである。1902年、夫婦の遺骸は霊廟から、同じ墓苑内の金十字架(Goldenen Kreuz)の真下に新造された夫婦共同の野外墓に移された。空になった元の霊廟は、内部に(第二の)バッテンベルク家の創始を記念する銘板が内部壁面に取り付けられ、始祖夫婦を記念する礼拝堂に転用された。夫婦の長女マリーの回想録によれば、アレクサンダー大公子は1866年頃には自家のための記念礼拝堂を建てる計画を立てていたという[4]。
ギャラリー
- バッテンベルク女伯と称した時期の肖像画、作者不明、1855年頃
- 肖像写真、1860年代
- 肖像写真、時期不明
- ハイリゲンベルク城で撮影された、ヘッセン大公家の一族集合写真、1864年。ユリアの元女主人であるロシア皇后マリア・アレクサンドロヴナが中央に座し、義姉のエリーザベト大公女と、その義理の娘アリス大公女が皇后の左右に座っている。後列に立つ男性陣の中で右端にいる帽子の人物が夫のアレクサンダー大公子。ユリアは左端で女性の中で唯一立っている。
子孫
ユリアと夫アレクサンダー大公子は5人の子に恵まれた。
⚭ 1871年エアバッハ=シェーンベルク伯(のち侯)グスタフ・エルンストと結婚、子女4人
- ルートヴィヒ(ルイ)・アレクサンダー(1854年3月24日 グラーツ生 - 1921年9月11日 ロンドン没) - イギリス国籍を取得、英国海軍提督、1912年第一海軍卿に昇任
⚭ 1884年(従姪)ヘッセン大公女ヴィクトリアと結婚、子女4人
- アレクサンダー(サンドロ)・ヨーゼフ(1857年4月5日 ヴェローナ生 - 1893年11月17日 グラーツ没) - ヨーゼフ・ラデツキーの代子、ブルガリア公(在位1879年 - 1886年)、1889年貴賤結婚に伴いハルテナウ伯爵(Graf von Hartenau)となる
⚭ 1889年オペラ歌手ヨハンナ・ロイジンガーと貴賤結婚、子女2人
- ハインリヒ(リコ)・モーリッツ(1858年10月5日 ミラノ生 - 1896年1月20日 シエラレオネ沖の英海軍戦艦ブロンディ艦上にて没) - 英国陸軍大佐、英国君主の女婿としてワイト島総督職及び「王家の殿下(ロイヤル・ハイネス)」の敬称得る、第四次アングロ・アシャンティ戦争で戦病死
⚭ 1885年イギリス王女ベアトリスと結婚、子女4人
- フランツ・ヨーゼフ(フランチョス)(1861年9月24日 パドヴァ生 - 1924年7月31日 シャフハウゼン没) - 次兄アレクサンダーの後継者としてブルガリアに同行、ブルガリア陸軍中佐
⚭ 1897年モンテネグロ王女アナと結婚、子女なし
夫妻の長男ルートヴィヒは英国籍を取得して「プリンス・ルイ(ルイス)・オブ・バッテンバーグ(Prince Louis of Battenberg)」と名乗り、1884年にはヴィクトリア英国女王の孫で同じヘッセン家の同族でもあるヘッセン大公女ヴィクトリアと結婚、海軍提督、さらに1912年第一海軍卿となり英国海軍トップに立った。三男ハインリヒは、長兄の結婚式で知り合ったヴィクトリア女王の末娘イギリス王女ベアトリスと1885年に結婚し、プロイセン陸軍を辞して英国陸軍に移り、「プリンス・ヘンリー・オブ・バッテンバーグ(Prince Henry of Battenberg)」となった。バッテンベルク家のイギリス在住の成員たちは、第一次世界大戦中の1917年9月、イギリス国民の反ドイツ感情を考慮して英国王家がウィンザー家と改称したのに従い、家名を英国式のマウントバッテン(Mountbatten)に改め、ドイツ由来の称号を放棄した。彼らはその代わり、親族のイギリス王ジョージ5世から連合王国貴族の称号を新たに与えられた。ルイはミルフォード・ヘイヴン侯爵その他2つの爵位を、ヘンリーの長男アレグザンダーはキャリスブルック侯爵その他2つの爵位をそれぞれ受けた。1960年にキャリスブルック侯爵家が継嗣なく絶えた後、バッテンベルク家の男系が続いているのはミルフォード・ヘイブン侯爵の系統だけとなり、第4代侯爵ジョージ・マウントバッテンが現在の同家家長である。