アントン・ロマコ

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現在はウィーンの一部であるアツガースドルフドイツ語版で生まれた。ヨーゼフ・レッパーという家具製造の工場主とその家政婦、エリザベト・マリア・アンナ・ロマコ(Elisabeth Maria Anna Romako、姓はRhomako、Romakho、Hromádkoともされる。)の婚外子として生まれた。生家は代々チェコの高級家具職人であった[1]。母親からの姓をチェコ流に呼ぶと、「ロマコ」ではなく「フロマートコ Hromádko」である[1]ウィーンフェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーカール・ラールに師事した[1]。その後、修行のためにイタリアスペインに行き、フランシスコ・デ・ゴヤの影響を強く受けた[1]

長年ローマで活躍していた[2]。妻に逃げられ[1]1876年にウィーンに戻ってきたが、祖国では評価されなかった[2]。注文の多くは時代の寵児であったハンス・マカルトのもとに持ち込まれてしまうため、ロマコにはあまり仕事が回ってこなかった[1]。ロマコは筆が早く、肖像画を描いて何とか生計を立てた[1]

ロマコの最期は自然な病死だったが、自殺という噂も立った[1]

評価と作風

今日では、19世紀後半のオーストリア画家の中で、最も技量に優れていたと評価されている[3]。ロマコの肖像画は、モデルの特徴を的確に捉えたものであった[1]

ロマコの最も有名な作品は、おそらく『リッサ海戦テゲトフ提督』である[1]。これは、海戦の激しさが生々しく描かれている点で画期的であった。『リッサ海戦のテゲトフ提督』のように、瞬間性とバロック的な激しい動きを結び付けたロマコの絵画は、マカルトのものよりも芸術としての長い生命を持っている[1]

ギャラリー

出典

参考文献

関連項目

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