アンドリー・パルビー
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アンドリー・ヴォロディミロヴィチ・パルビー(宇: Андрі́й Володи́мирович Парубі́й、1971年1月31日 - 2025年8月30日[11])は、ウクライナの政治家。ウクライナ英雄(死後、2025年10月1日受賞)[12]。元ウクライナ最高議会議長(2016年4月14日[1] - 2019年8月29日[2])。2014年ウクライナ騒乱にて反政府運動を主導した後[13][14]、ウクライナ国家安全保障・国防会議書記として任命され、2014年8月7日に辞任するまで務めた[3][4]。
| アンドリー・パルビー | |
|---|---|
| Андрій Парубій | |
| 任期 2016年4月14日[1] – 2019年8月29日[2] | |
| 代理官 | イリーナ・ヘラシュチェンコ |
| 前任者 | ヴォロディーミル・フロイスマン |
| 後任者 | ドミトロ・ラズムコフ |
| 任期 2014年12月4日 – 2016年4月14日 | |
| 大統領 | ペトロ・ポロシェンコ |
| 前任者 | イオール・カリートニク |
| 後任者 | イリーナ・ヘラシュチェンコ |
| 任期 2014年2月27日 – 2014年8月7日[3][4] | |
| 大統領 | オレクサンドル・トゥルチノフ |
| 前任者 | アンドレイ・クリューイェフ |
| 後任者 | オレクサンドル・トゥルチノフ[5][6] |
| 任期 2007年12月23日 – 2012年12月12日 | |
| 選挙区 | 我らのウクライナ、第80位[7] |
| 任期 2012年12月12日 – 2014年3月17日 | |
| 選挙区 | 無所属、第21位[8] |
| 任期 2014年12月27日 – 2019年8月29日 | |
| 選挙区 | 人民戦線党、第4位[9] |
| 任期 2019年8月29日 – 2025年8月30日 | |
| 選挙区 | ペトロ・ポロシェンコ・ブロック、第2位[10] |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1971年1月31日 |
| 死没 | 2025年8月30日(54歳没) |
| 国籍 | |
| 政党 | ペトロ・ポロシェンコ・ブロック (2019–) |
| 協力政党 | 人民戦線党(2014–2019) 全ウクライナ連合「祖国」 (2012–2014) 変化への戦線(2012) 我らのウクライナ(2004–2012) ウクライナ社会民族党(1994–2004) |
| 住居 | |
| 出身校 | リヴィウ大学 |
| 職業 | 政治家 |
| 公式サイト | www.parubiy.org |
経歴
議員就任前
1971年1月31日にソビエト連邦・ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のチェルヴォノフラードにて生まれる。
1991年にウクライナが独立するまでの数年間、パルビイは独立運動家として活動し、1989年には無許可でデモを行ったことで警察に逮捕された。1991年にはオレーフ・チャフニボークと共に、ウクライナ社会民族党(SNPU)を結成した[15][16]。この政党は名前やヴォルフスアンゲルを模したロゴに過激派国粋主義とネオナチの要素を取り入れた政党であった[16][17][18]。
1994年にはリヴィウ大学歴史学部を卒業し、「歴史家」、「歴史教師」の学位を取得した。2001年にはリヴィウ工科大学大学院政治学・社会学専攻を卒業した。
1998年から2004年にかけて、パルビーはSNPUの準軍事的組織であるウクライナの愛国者を率いた[18]。パルビーは2004年に組織から脱退し[17]、同年に発生したオレンジ革命に参加した[19]。
議員就任後
2007年ウクライナ最高議会選挙にて、パルビーは我らのウクライナ所属としてウクライナ最高議会の議員に選出された[7]。その後、ウクライナのために!の前身となる、「我らのウクライナ・人民自衛」連合の代理組織に加入した。パルビーは我らのウクライナで活動し続け、政策評議会の会員となった[20]。
2010年10月に、パルビーは当時ウクライナ前大統領であったヴィクトル・ユシチェンコが、ウクライナ民族主義者組織のリーダーであったステパーン・バンデーラへ、ウクライナ英雄を授与することを決定したことに対して否定的な反応を示した欧州議会に向け、再考するよう要請した[21]。
2012年2月上旬、パルビイは「方向性の違い」を理由に我らのウクライナから脱退した[22]。2012年ウクライナ最高議会選挙にて全ウクライナ連合「祖国」支援の無所属議員として再選した[8][23]。
2013年12月から2014年2月までパルビーはユーロマイダンの指揮官を務め[24]、抗議運動の中心人物を警備するボランティア警備隊の幹部として行動していた[25]。その後、パルビイはウクライナ国家安全保障・国防会議(NSDC)書記に任命され[13]、2014年6月16日に、当時のウクライナ大統領であったペトロ・ポロシェンコによって承認された[26]。
NSDC書記時代、パルビーはウクライナ東部における親ロシア系の分離主義者に対する「反テロ」作戦を支持した[27]。
パルビーは2014年8月7日にNSDC書記を辞任した。パルビーは辞任の理由を明かさず、「戦時中に私が辞任することに対してコメントすることは容認されないと思われる。」「前線、特にボランティア大隊を支援し続けるつもりである。」と語った[3][16]。ポロシェンコ大統領は同日、パルビーの解任を承認する大統領令に署名した[4][16]。ロシア・トゥデイは、地元メディアがウクライナ南東部での戦闘の停戦を宣言した後に辞任するよう求められたが、パルビーはこれを拒否したと報じた[16]。
2014年9月にパルビーは設立メンバーとして、人民戦線党に加入し[28]、2014年ウクライナ最高議会選挙にて人民戦線党所属として最高議会議員に再選した。12月4日には最高議会副議長に選ばれた。

ヴォロディーミル・フロイスマンの辞任後、2016年4月14日に最高議会議長に選出された[1]。2017年には日本を公式訪問し、当時参議院外交防衛委員会委員長であった宇都隆史との会談において、日本とウクライナの合同軍事演習を提案した[29]。
2019年5月15日、パルビーは議会改革局の設置に関する法令に署名し、議会の作業の指示に従って、15人を職員として起用する予定であると述べた[30]。
2019年ウクライナ最高議会選挙にて、パルビーはペトロ・ポロシェンコ・ブロック所属議員として第2位となった[10]。この党は票全体の内、8.1%を得票し、23議席[注 1]を獲得したため、パルビーは再選した[31]。2019年8月29日に、パルビーは最高議会議長の職をドミトロ・ラズムコフに引き継いだ[2]。
殺害
2025年8月30日、パルビーはリヴィウのスィヒフ地区で銃撃され死亡した[32]。54歳没[11][33]。ロシアメディアによると、ロシア内務省の指名手配リストに載っていたという[14]。9月1日、ウクライナ国家警察は殺人容疑で男を逮捕したと発表した[34]。