アンリ・デュフール
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軍人・技術者・政治家
1817年に彼はジュネーヴへと戻り、新しく創設されたスイス国軍で大尉の地位に就くとともに、ジュネーヴ軍の指揮官およびジュネーヴ大学の数学教官の地位に就いた。ジュネーヴにおいて彼は都市計画家及び地図製作者として実績を積み重ねた。正式には1828年まで任命されなかったものの、1817年からすでにジュネーヴの都市計画を任され、さまざまな事業を行っている。1822年には世界初のワイヤーケーブルのつり橋であるセント・アントワーヌ橋を設計し架橋した。レマン湖への蒸気船の導入やガス灯の設置も行っている[2]。1832年にはスイス国内の正確な地形図を作製する作業を命ぜられ、1838年にはスイス連邦地理院の総裁の地位に就き、1865年までその座にあった[1]。地図は1864年の12月に完成し、デュフール地図と呼ばれた。軍人としては1819年にトゥーンに創立された士官学校の教官となり、1831年まで同職にあった。その間、1827年には大佐まで昇進している。1829年にはルイ・ナポレオンが士官候補生として入学してきた。デュフールとナポレオンとの関係は良く、ルイがナポレオン3世としてフランスの帝位に就いた後も親交は続いた。また、1819年には彼はジュネーヴ市議会の議員となり、1848年から1851年までと1854年から1857年までは自由主義派のジュネーヴ州代表としてスイス下院(国民院)の議員となった。1863年から1866年まではジュネーヴ州代表の上院(全州議会)議員となった。
分離同盟戦争

1840年代、スイスはジュネーヴやチューリヒ、ベルンなどの自由主義カントンと原初3州やルツェルンなどの保守派カントンの間で内紛が続き、分裂の危機にあった。優勢な自由主義カントンに対し、保守派7カントンは1845年1月、保護同盟を結成し、スイス盟約者団内に国家内国家が形成されることとなった。1847年10月、自由主義派で占められる盟約者団会議は、保護同盟(分離同盟)に対し軍事的行動に出ることを視野に入れ、デュフールをスイス史上初の将軍に任命し、軍事の全権を委任した。1847年11月4日、ついに両派の間に戦端が開かれ、分離同盟戦争が始まった。
デュフールはフランスやオーストリアなど近隣大国の干渉を防ぐためにすばやく戦争を決着させることを決め、各カントンを各個撃破していった。まずヴァリスを封鎖した後、11月14日フリブールを落とし、21日にはツークを占領、24日にはルツェルンを陥落させ、12月1日に開戦後わずか26日間で分離同盟全カントンを降伏させた[3]。この戦いの際、デュフールは負傷者を自軍に収容し治療を施した。この戦いにおいて死者は両軍合わせて130人、負傷者も400人程度に抑えられた[4]。なお、これまでスイス軍の兵士は自らの所属カントンの旗や白い十字を徽章として用いていたが、デュフールはそのうちの白い十字を採用し、軍の旗とした。これが戦後、スイス国旗として採用された。


