アーサー・ディロン (1750-1794)
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ジャコバイト派のアイルランド貴族、第11代ディロン子爵ヘンリー・ディロン(1705年 – 1787年9月15日)と、その妻で第2代リッチフィールド伯爵の娘のシャーロット・リー(1794年6月19日没)の間の次男として[1]、イングランド・バークシャーのブレイ・ウィックで生まれた[2]。
1767年8月25日、わずか16歳で父から一族が世襲するディロン連隊の連隊長(大佐)職を引き継ぐ。アメリカ独立戦争が始まると連隊を率いてアメリカへ渡り、提督デスタン伯爵の麾下で従軍。1779年のグレナダ占領ではマカートニー卿の部隊と戦い、弟ヘンリーと共に7月5日マカートニーを降伏させた。7月6日のグレナダの海戦でも艦船に乗り込み戦闘に従事した。同年9・10月のサバンナ包囲戦にも従軍し、同地で旅団長に昇進。そして1783年のパリ条約締結後、仏領トバゴ総督に任命された。
ディロンは1768年に又従妹のテレーズ・リュシー・ド・ロースを妻としたが、1782年に死別した。トバゴ総督就任後の1785年、彼はマルティニーク島の富裕な農園主の未亡人ロール・ド・ジラルダン・ド・モンジェラール(1749年 - 1817年)と再婚した。1789年、ヴェルサイユで開催された全国三部会にマルティニーク島代表として出席するためフランス本土に戻り、フランス革命に遭遇する。
第一次対仏大同盟戦争中、ディロンは旧体制の貴族将校として、非常に困難な軍指揮を担った一人だった。1792年4月29日、同じ境遇にあった彼の従兄弟セオボールド・ディロンは、小規模戦闘(マルカンの戦い)の敗北の責任を負わされ自軍の兵士に虐殺された[3]。ヴァルミーの戦いの後、ディロンの上官デュムーリエ将軍は軍の大半を連れてベルギーの前線に戻った。その際、1792年10月1日ごろ、ディロンに1万6000人の兵を付けて分離し、アルデンヌ方面軍に合流させようとした[4]。その2週間後、ディロンはパリに召喚され、尋問を受けた。副官のフランソワ・セヴラン・マルソーの必死の弁護も空しく、1793年7月1日にディロンは反革命容疑で逮捕された。そして「監獄の陰謀」を企てた嫌疑をかけられ、1794年4月13日ギロチン刑に処せられた。最後まで王党派の信条を捨てなかった彼は、処刑の際、「国王万歳!("Vive le roi!")」を叫んだ[5]。
マルティニーク島の主都フォール=ド=フランスには、ディロンが経営に携わったディロン醸造所が存在する。
子女
最初の妻との間に1男1女。
- ジョルジュ・ディロン(2歳で夭折)
- アンリエット・リュシー・ディロン(1770年 - 1853年) - ラ・トゥール・デュ・パン侯爵フレデリック・セラファン・ド・ラ・トゥール・デュ・パン・グヴェルネ(1837年没)と結婚[1]
2番目の妻との間に2女。
- ルイーズ・ディロン(1783年 - 1822年)
- エリザベート・フランソワーズ・ファニー・ディロン(1785年 - 1836年) - 1808年アンリ・ガティアン・ベルトラン伯爵と結婚
