アーチボルド・アチソン (第2代ゴスフォード伯爵)
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第2代ゴスフォード伯爵アーチボルド・アチソン(Archibald Acheson, 2nd Earl of Gosford GCB PC、1776年8月1日 – 1849年3月27日)は、アイルランド王国出身の政治家、貴族。ホイッグ党に属し、アイルランド庶民院議員、連合王国庶民院議員、アイルランド貴族代表議員、国王親衛隊隊長、イギリス領北アメリカ総督を歴任した[1]。アーマー統監としてアーマー県で融和政策を実施して成功したため、その実績を買われて北アメリカ総督を務めたが、国王ウィリアム4世に釘を刺されて植民地議会への譲歩がほとんどできず、結局融和に失敗して1837年11月にローワー・カナダの反乱が勃発した[2]。
生い立ち
初代ゴスフォード伯爵アーサー・アチソンと妻ミリセント(Millicent、1825年11月1日没、エドワード・ポールの娘)の息子として、1776年8月1日に生まれた[1]。1796年1月22日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、同年にB.A.の学位を、1797年10月26日にM.A.の学位を修得した[3][4]。
アイルランド庶民院議員
1798年1月9日にアーマー県選挙区からアイルランド庶民院議員に選出された[5]。同年のアイルランド反乱に際してはアーマー県民兵隊の副隊長を務め、1807年に隊長に就任した[5]。1800年1月20日にアイルランド王国とグレートブリテン王国の合同法案への反対票を投じたが、父が賛成したため、父の伯爵への昇叙を打診され、このときは辞退した[5]。1803年に同様の打診を受けるも同じく辞退し、1806年にホイッグ党の挙国人材内閣が成立した後にようやく受け入れた[5]。1801年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立した時点でアーマー県選挙区選出議員を務めていたため、連合王国庶民院議員に移行した[5]。
連合王国庶民院議員
連合王国成立直後のアーマー県ではコールフィールド(チャールモント伯爵)、アチソン(ゴスフォード子爵、のちゴスフォード伯爵)、ブラウンロー家の影響力が強く、議員選出はコールフィールドとアチソン両家の議論で(政治問題とほとんど無関係に)決定された[6]。実際に1802年と1806年の総選挙において、コールフィールド家とアチソン家の候補が無投票で当選しており、アチソンは1807年の爵位継承まで再選を繰り返した[6]。1803年にアチソンの妹メアリーが第3代ポートランド公爵の弟ウィリアム・ベンティンク卿と結婚すると、アチソンはポートランド公爵派の一員として行動することを期待され、1804年に成立した第2次小ピット内閣を支持することも期待された[7]。1805年5月にカトリック解放への反対票を投じたが[7]、1815年には支持するようになったとされる[6]。
アイルランド貴族代表議員
1807年1月14日に父が死去すると、ゴスフォード伯爵位を継承した[1]。1811年8月19日に摂政王太子の支持する第2代リートリム伯爵を破ってアイルランド貴族代表議員に当選、1849年に死去するまで務めた[7][8]。1815年に「善良で尊敬するに足る人物で(中略)政治的や個人的な要求がない」と形容されたが、1820年にはホイッグ党支持に転じた[7]。1825年にもダニエル・オコンネル率いるカトリック協会の違法化法案に反対し[2]、1829年ローマ・カトリック信徒救済法、1832年の第1回選挙法改正、1833年のユダヤ人解放に賛成した[3]。
1831年10月17日にアーマー統監に任命され、1849年に死去するまで務めた[9]。1834年9月3日、枢密顧問官に任命された[10]。同年10月9日に国王親衛隊隊長に任命され[11]、1835年1月5日までに退任した[12]。1835年4月23日に再び国王親衛隊隊長に任命され、同年8月5日までに退任した[12]。この時期のホイッグ党政権はアイルランドでは融和政策を採用しており、ゴスフォード伯爵もアーマー統監としてアーマー県の暴動について同情的な報告をした[5]。これを受けて庶民院で問責決議が提出されたが、激論の末否決された[5]。次に急進派のジョセフ・ヒューム議員がゴスフォード伯爵を褒め称える動議を提出し、ダニエル・オコンネルと政府の支持を受けたこともあり、可決された[5]。
イギリス領北アメリカ総督
1835年6月13日に連合王国貴族であるサフォーク州ベクルズにおけるウォーリンガム男爵に叙され[1][13]、7月1日にイギリス領北アメリカ総督に任命された[5]。同日にローワー・カナダの状況と植民地住民の不満を調査するゴスフォード委員会の委員にも任命された[5]。ゴスフォード伯爵による融和政策がアイルランドで効果を上げており、ローワー・カナダにも同じ政策を適用できる期待からの任命だった[2]。ゴスフォード伯爵は8月24日にケベック・シティーに到着した[2]。文民であるため、それまでの総督と違いカナダ軍の総司令官に就任せず、代わりにジョン・コルボーンが総司令官および副総督を務めた[2]。
この時期、ルイ=ジョセフ・パピノー率いる愛国者運動はイギリス政府に3つの要求を突き付けていた[5]。すなわち、植民地議会に王領地の支配権を与えること、財政を行政ではなく議会の管轄下に置くこと、選挙で選出される立法議会を設立することだった[5]。本国のメルバーン子爵内閣は1つ目と3つ目の要求を受け入れるつもりで、2つ目の要求に関しても王室費を留保する以外は受け入れるつもりだったが、国王ウィリアム4世はゴスフォード伯爵がイギリスを発つ前に「神の名において、私は王領地の譲渡にも、議会を選挙制にすることにも同意しないことを誓う」と述べて釘を刺した[5]。そのため、ゴスフォード伯爵はローワー・カナダ議会との融和を重視するようにとの指令を受けていたにもかかわらず、実際にはさほど譲歩できなかった[2]。
ケベックに到着したゴスフォード伯爵は前任者の第5代エイルマー男爵から距離を置いた[2]。エイルマーはイギリス側に味方する人物と目されていたためだった[2]。その結果、1835年10月27日に植民地議会が開会したとき、ゴスフォード伯爵は会議をなんとか成立させる程度の人気を維持できたが、金銭法案を採決させることには失敗した[2]。ゴスフォード伯爵は融和政策を用いて、一時は愛国者運動のうち穏健派の一部を味方につけたが、ゴスフォード伯爵に選挙制の議会を進言することも、財政を王室費の留保なしに議会に委ねることもできないことが露見すると、穏健派からの支持が再び失われた[2]。その結果、ゴスフォード伯爵は1836年3月21日に議会の閉会を宣言せざるを得ず、植民地議会からの請願を本国に転送するとともに行政と立法議会の改革権を求めた[5][2]。またその間には1836年1月にゴスフォード委員会の第1報告書、3月に第2報告書が提出され、前者はごくわずかな王室費を除き財政を議会に委ねることを提言し、後者は議会の要求をすべて満たさない限り議会が金銭法案を可決することはないが、すべて満たすと「カナダにおけるフランス共和国」を建国するのも同然であるとした[3]。ゴスフォード伯爵の要求に対する本国からの返答は、委員会の最終報告書が提出される前に行政と立法議会を改革しない、というものだった[3]。
1836年11月15日、ゴスフォード委員会の最終報告書が提出された[2]。報告書は植民地議会の極端な要求を拒否して、議会による支持なしに統治できるよう本国からカナダの行政に予算を出すことを提言した[2]。そして、内務大臣ジョン・ラッセル卿は1837年3月に最終報告書の提言を実施するための決議案を提出した[2]。『オックスフォード英国人名事典』はラッセルの決議案がゴスフォード伯爵の融和政策の失敗を意味すると評した[2]。これを受けてパピノーは全面対決を決意して、反乱を計画することとなった[5]。1837年8月25日に植民地議会が開会すると、議員たちは抗議として(イギリスからの輸入品を使わず)カナダ製の手織物を着て登院し、金銭法案の可決を再び拒否した[2]。議会はただちに解散され、さらに9月には一部の民兵隊士官と微罪判事が市民的不服従を支持する集会に出席したとして解任され、10月にゴスフォード伯爵がカナダ憲法の停止を提言[2]、11月16日にパピノーら愛国者運動の指導者の逮捕状が出された[3]。この逮捕状は1週間後にローワー・カナダの反乱が勃発するきっかけとなった[3]。
事態がエスカレートする中、反乱の勃発を予想したゴスフォード伯爵はイギリス側の支持者における自身の人気のなさが反乱鎮圧の妨げになると判断して、辞表を出した[2]。実際に反乱が勃発したとき、ゴスフォード伯爵は寛容を示す形で12月に反乱軍112人を釈放した[2]。
辞表は1837年11月14日に受け入れられ、ゴスフォード伯爵は1838年1月にこれを知った後、1838年2月26日にカナダを発った[5][3]。このときにはカナダ政界で孤立しており、盟友がほとんどいなかったという[3]。
晩年
1838年7月19日、バス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[14]。後任の総督となった初代ダラム伯爵の任命は最初は賛意を示したが、1838年秋に第2次反乱が勃発するとその責任をダラム伯爵に帰した[2]。1839年から1840年にかけて審議されたアッパー・カナダとローワー・カナダの合同法案には自身の融和政策を採用すべきだと主張して、法案に反対した[5]。またダニエル・オコンネルとは合同法案廃止問題をめぐって決裂した[2]。
1841年5月14日にアルスター海軍次官に任命され、1849年に死去するまで務めた[15]。以降は領地管理に専念した[5]。
1849年3月27日にアーマー県マーケットヒルで死去、4月18日にアーマー県マラーブラックで埋葬された[1]。息子アーチボルドが爵位を継承した[1]。
評価
『オックスフォード英国人名事典』によれば、カナダ総督としてのゴスフォード伯爵は歴史家の間で評価が低く、一般的には「お人よしの無能」の評価になっている[2]。しかし同書はこの評価が不公平であると断じ、メルバーン子爵内閣の優柔不断によりゴスフォード伯爵の行動が制限されているとした[2]。そのため、融和の失敗は不可避だったが、ゴスフォード伯爵が真摯に融和政策を実施したため反乱の規模が縮小されたという[2]。
『カナダ人名事典』も「ゴスフォードが目標の達成に失敗したことは自明である。彼に成功する見込みがあったかどうかは疑わしい」と評した[3]。その一方、ゴスフォード伯爵がパピノーへの支持度を低く見積もったため、内閣の優柔不断がなくとも成功した可能性が低いと評した[3]。