アーティカ・ビント・ザイド・アダウィーヤ
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前半生
1回目の結婚
2回目の結婚
アーティカの2番目の夫はアブドゥッラー・イブン・アビー・バクルである[2]:186[6]:101。アブドゥッラーはアーティカの言いなりになり、二人きりで時間を過ごすためにジハードへの参戦を怠り、アブー・バクルが罰としてアブドゥッラーにアーティカと離婚するように命じたと言われている[4][7]。しかしバラーズリーが伝える別の一説では、アーティカが妊娠しなかったのでアブー・バクルが離婚を命じたとも言われている[8]:267。
アブドゥッラーは父に言われたとおり離婚を宣言したが悲しみに沈み、あなたには何の落ち度もないという意味の一節を含む詩を、アーティカに書き送った[4][7]。最終的に、アブドゥッラーはアーティカの待婚期間が明ける前に離婚宣言を撤回することを許された[4][7]:87。
預言者ムハンマドの死(632年)に際して、アーティカは一編の悼詩を詠んだ。
アブドゥッラー・イブン・アビー・バクルは、自身の死後、アーティカが再婚しないということを条件に、多くの財産を彼女に分与した:186:267。そして633年1月マディーナにて、タアイフの戦いで受けた傷がもとで死んだ:76[4]。アーティカはアブドゥッラーに悼詩を詠んだ。
その後、アーティカに求婚する男が何人かいたが、数か月間はそれを断り続けた:186。
3回目の結婚
父方イトコのウマル・イブン・ハッターブ(のちの第2代正統カリフ)はアーティカに、再婚の権利を放棄し、「神が許したものを自ら否定する」のは間違いだと言った:187。
ウマルがカリフに就任したあとのことである:70。アーティカが操を守る誓いを破ったことを知ったアーイシャ・ビント・アビー・バクル(アブドゥッラー・イブン・アビー・バクルの妹)は、アーティカがアブドゥッラーに捧げた悼詩を本歌取りした手紙を送り、財産を返せと訴えた:267–268。アリー・イブン・アビー・ターリブもこれに同調したところ、ウマルはアーティカに土地は返すように言った:187[8]:268。ウマルは返した土地と同等の金銭をアーティカに分与し、彼女はその中から誓いを破った罪滅ぼしのために喜捨(サダカ)を行った[8]:267。
ウマル・イブン・ハッターブとの婚姻により、アーティカはイヤードと名付けられた息子を生んだ:204。
アーティカはいつも、金曜礼拝に参列することの許可をウマルに求めた。妻たちが家にいることを好むウマルは沈黙による不同意を表現した。アーティカは許可を求めることをやめるつもりはなく、たとえ夫が特別に、金曜礼拝への参列を禁止したとしてもモスクに行くつもりだとウマルに言った。マーリク・イブン・アナスの解釈によれば、ウマルが沈黙せざるを得なかったのは、預言者ムハンマドが許可したことを禁止できなかったからであろう:188–189。
644年11月にウマルが暗殺されたとき、アーティカはモスクにいた:285。アーティカはウマルに捧げる悼詩を詠んだ。