バラーズリー
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バラーズリーの伝記的情報の情報源は、イブン・ナディームの al-Fihrist[1]、ヤークート・ルーミーの Mu‘jam al-Udabā 、ムハンマド・イブン・シャーキル・クトゥビーの Fawāt al-Wafayāt である。

バラーズリーの生涯について詳しいことはわからない[2]。西暦800年より少し前にバグダードに生まれた。生家がペルシア系であったことは確実である。バラーズリーはシリアのホムスとアンティオキアでそれぞれ、高名な学術の師の下で学んだ。バグダードではイブン・サアドを師として学んだ[2]。マアムーンからムウタッズまでのカリフ宮廷に頻繁に出入りし、とくにカリフ・ムタワッキル(在位847年-861年)と深くかかわった。しかしバラーズリーが何かしたという事績がまったく伝承されていないため、ムタワッキル宮廷における彼の存在は特に輝かしいものではない。なお、バラーズリーがムウタッズの好学の王子アブドゥッラーの師匠だったという説もあるが[2][3]、名前の混同に起因する間違いであることは疑いない。祖父のジャービルは、ハールーン・ラシードのエジプト総督であるカスィーブに使える書記だったというが定かかどうか不明である[2]。
バラーズリーはムウタッズの暗殺(869年)ののちに宮廷を辞去した。経済的に苦しくなったため、ワズィールの庇護を得ようとワズィールが交替するたびに試みた。バラーズリーは長生きして亡くなった。亡くなったときのいきさつは、彼があるとき、アラビア語で「バラーズル」という植物の実から抽出したエキスを飲んだために亡くなったと伝承されている[2]。バラーズルはインド原産のウルシ科の植物(学名: Semecarpus anacardium, 和名: スミウルシ[4]、英語名: marking nut[5])で、そのエキスは物忘れに効くと信じられていた[5]。しかしエキスを飲んだことで譫妄が引き起こされ、彼はベッドに縛り付けられねばならなかったと言われている。「バラーズリー」というあだ名はこの亡くなったときのエピソードに由来し、没後に使われるようになったものである[2]。