1870年、船舶ブローカーの父Abraham Bøckmann Thiis(1840年-90年)と母Emma Marie Löwegren(1842年-1928年)との間に生まれた。両親が離婚したため、1888年に高校を卒業するまで、クリスチャニア(現オスロ)で宝石商を営む母方の祖父母のもとで育った[1]。
当初、画家を目指し、王立絵画学校に進学したが、美術史を学ぶことになった。その傍ら、オスロの美術館で働いた。1890年から1892年にかけて、研究のため、デンマーク、ドイツ、イタリア、フランス、ベルギー、オランダと各国を回り、美術コレクションや教育機関をめぐった。1893年の冬、ベルリンで、同郷の画家エドヴァルド・ムンクと出会い、また、居酒屋「黒仔豚亭」で、ムンクのほかヨハン・アウグスト・ストリンドベリらの芸術家と親交を持った[1]。
1895年、開館して間もないトロンハイムの装飾美術館に就職し、新たな美術コレクションの収集などに努めた。この年、Ragna Vilhelmine Donsと結婚している[1]。
1899年から、ルネサンス期のフィレンツェの素描についての研究を始め、カタログ・レゾネを作製しようと考えていたが、美術史家バーナード・ベレンソンが同様の事業を達成していたことが分かり、断念した。3巻から成る未刊の原稿が残されている[2]
1908年、オスロ国立美術館の館長に任命され、1941年までこれを務めた。美術コレクションの充実に大きな功績をあげた。また、国立美術館の北棟の増設も行った。特に、19世紀後半以降のフランス美術の収集に熱心で、エドガー・ドガ、エドゥアール・マネ、ベルト・モリゾからパブロ・ピカソまでそろえている[1]。
1939年、妻Ragnaを亡くし、自分の健康も害するようになり、1942年、亡くなった[1]。