イッポリト・ギリャロフスキー

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イッポリト・ギリャロフスキーロシア語: Ипполи́т Ива́нович Гиляро́вский、1865年8月18日 - 1905年6月27日)は、戦艦「ポチョムキン」の反乱時に副長を務めていたロシア帝国海軍の軍人である。階級はフリゲート艦長であった。水兵への過酷な扱いが、反乱を招いた主な要因の一つとされる。ギリャロフスキーは反乱中に殺害された。

イッポリト・ギリャロフスキー

ギリャロフスキーは、ロシア帝国のエストリャント県に属していたレヴァルに、ロシア正教会の司祭の子として生まれた。1883年、士官候補生として帝国海軍に入った。1889年に士官候補生から砲術中尉に昇進した。バルチック艦隊司令部で海軍砲術の参謀士官を務めた後、装甲巡洋艦グロモボーイの上級士官に任じられた。ギリャロフスキーは、日露戦争中の仁川沖海戦での働きにより勲章を授与された。厳格な規律主義者であったギリャロフスキーは、部下の水兵に日常的に暴力を振るい、名前を知らなかったという理由で水兵の顔を殴ったこともあった[1]

1904年10月18日、戦艦「ポチョムキン」の副長に転任した。

ポチョムキン艦上

ギリャロフスキーは「ポチョムキン」の副長となった。彼はこの職務を、乗組員を監視し、定期的に身体検査を行い、処罰する役割と考えていた。艦長のエフゲニー・ゴリコフロシア語版は、ギリャロフスキーが厳しすぎると上官に苦情を述べたほどであった。

1905年6月27日(旧暦6月14日)、乗組員は蛆のわいた牛肉で作られたボルシチを拒否した。ギリャロフスキーは、なぜパンとバターだけを食べているのかと問いただし、艦医スミルノフに知らせた[2]。スミルノフは「肉に問題はないと彼らにはすでに言った。蛆は、ハエがそこに産みつけた幼虫の卵にすぎない。塩と水で洗い流せばよい。調理兵は私の指示でそうした。乗組員が食べることを拒み続けるなら、腐っているのは彼らの方だ。それだけだ」と述べた。ギリャロフスキーはその後、艦長のもとへ行き、「彼らに教訓を与えねばなりません」と述べた。艦長は乗組員を召集し、ボルシチを受け入れない者を脅した。ギリャロフスキーは「さあ、さあ、急げ」と叫んだが、前に出たのは12人だけであった。副長は、ボルシチを拒否した者の名前を記録するよう掌帆長に命じた。一般の乗組員が散り散りになる中、艦の海兵警備兵、すなわち武装した水兵たちが呼び出された。ギリャロフスキーはさらに、「つまり反乱というわけだな。よろしい、対処の仕方は分かっている。海軍に規律がないと思っているなら、それが間違いだと教えてやる。掌帆長、ターポリンを持ってこい」と叫んだ。艦上で処刑が行われる場合、甲板が汚れるのを防ぐためにターポリンが使われた。

一部の水兵は武器を取ったが、大半は衝撃を受け、混乱していた[3]。ギリャロフスキーは海兵警備兵の一人から小銃を奪い、残りの者に射撃を命じた。下級士官を伴い、革命派の指導者であったグリゴリー・ヴァクレンチュクに向かって突進した。ヴァクレンチュクは2人の士官に発砲し、中尉を殺害した。ギリャロフスキーはヴァクレンチュクの胸を撃った。負傷したヴァクレンチュクはギリャロフスキーから小銃を奪い取ったが、その後、下士官に背中を撃たれた。別の革命派であったアファナシー・マチュシェンコロシア語版は士官たちに発砲したが、外した。ギリャロフスキーは海兵警備兵に射撃を命じたが、彼らは甲板上の混乱した群衆の中へ散っていった。マチュシェンコと他の2人の水兵は、ギリャロフスキーと別の士官を撃ち倒した。ギリャロフスキーの最後の言葉は「貴様のことは分かっているぞ、この悪党め。今は艦から逃げられるかもしれんが、必ず見つけ出してやる」であった。彼は水兵たちによって海へ投げ込まれた[4]。ギリャロフスキーの遺体は、1905年8月に海軍輸送船「ゴネツ」によって海上で発見された。

「ポチョムキン」の18人の士官のうち7人は、反乱そのものの短い衝突で殺害された。その中にはギリャロフスキー、艦長ゴリコフ、艦医スミルノフが含まれていた。水兵も2人死亡した。生き残った士官は最終的に上陸させられたが、3人はそれぞれの事情により艦に残った[5]

著述家リチャード・ハフは、反乱時のギリャロフスキーの命令をより好意的に評価している。ハフによれば、乗組員がボルシチを食べることを拒否した際、艦長の対応が弱かったため、ギリャロフスキーは秩序と規律を保とうとしたという。ギリャロフスキーが当初、乗組員を撃つと脅したことは、彼の正式な権限を越えた虚勢であった。マチュシェンコの指導下にあった乗組員の大半が再び命令に従うことを拒み、脅迫的になったため、ギリャロフスキーは自らの脅しを実行に移さざるを得ないと感じた。ハフは、「帝国海軍の規律は、イギリス海軍やアメリカ海軍より厳しかったわけでも、緩かったわけでもない」としている[6][7]

私生活

脚注

参考文献

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