イブン・ハッリカーン
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ヒジュラ暦608年第2ラビー月11日(ユリウス暦1211年9月22日)にエルビールで生まれた[1]。生家はバルマク家の子孫であることを主張する名家である[1]。父親はトルコ系軍人君主が創設した学院で教師(mudarris)をしていたが、イブン・ハッリカーンが2歳のときに亡くなった[1]。より詳しい名前は「アフマド・イブン・ムハンマド・イブン・イブラーヒーム」、「アブー・アッバース」というクンヤ、「シャムスッディーン」というラカブがある[1]。また、「イルビーリー」「バルマキー」「シャフィイー」などのニスバもある[1]。
父親の後任として学院の教師に就任した学者の下で勉学を始め、その後、アレッポ、ダマスクス、モスルを含む各地の学者の下で学問を修めた[1][3]。アレッポではイブン・シャッダード(英語版)の下で学び、モスルでは同時代の歴史学者イブン・アスィールや数学者キャマールッディーン・イブン・ユーヌス(英語版)の知己を得た[1][3]。太陰暦で27歳ぐらいのときにエジプトに移り住み、遅くともユリウス暦1249年にはエジプトの大カーディー、バドルッディーン・ユースフを補佐する立場に就いた[1]。
1261年にマムルーク朝スルターン・バイバルスがイブン・ハッリカーンを、シリア全体の裁判を管掌するダマスクスの大カーディー職(al-Qāḍī al-Quḍāt、裁判官の長)に任命した[1]。これはシャフィイー派のイブン・ハッリカーンを大カーディーとする一方で、ハナフィー派、ハンバリー派、マーリキー派のカーディーを彼の代理人とする人事である[1]。1266年にバイバルスは、それら3学派のカーディーのそれぞれを大カーディーに昇進させるべしという命令を発出した[1]。これによりイブン・ハッリカーンは地位を失い、一時的にエジプトに戻って教師の職に就いたが、1277年にバイバルスが亡くなると再びダマスクスの大カーディーに任命された[1]。
しかしカラーウーンのスルターン登極後、シリア総督ソンコル・アシュカル(英語版)が起こした反乱に巻き込まれた[1]。ソンコルは敗れ、1280年6月にダマスクスにエジプト軍が入城して恩赦が伝えられたが、イブン・ハッリカーンはソンコルの反乱を正当化するファトワーを発出したとして牢に入れられた[1]。しかし3週間後にスルターンの勅令により解放され、大カーディーに復職した[1]。その後のヒジュラ暦681年ラジャブ月26日(ユリウス暦1282年10月30日)にダマスクスで亡くなった[1]。
著作
典拠
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 Fück, J. W. (1971). “Ibn Khallikān”. In Lewis, B.; Ménage, V. L. [英語版]; Pellat, Ch. [英語版]; Schacht, J. [英語版] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume III: H–Iram. Leiden: E. J. Brill. pp. 832b – 833a. doi:10.1163/1573-3912_islam_sim_3248.
- 1 2 3 “Ibn Khallikān”. Encyclopedia Britannica. 26 October 2025. 2026年2月6日閲覧.
- 1 2 3 4 阿久津, 正幸「イブン・ハッリカーンのマドラサ入学、バハー・アッディーン・ブン・シャッダードの講義」『大学史研究』第19号、2003年、1-16頁、doi:10.57566/daigakushi.2003.19_1、2026年2月6日閲覧。