ムタナッビー
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生涯
ムタナッビーは915年に現在のイラクの町クーファで誕生する[3]。水運びを生業とした家庭。ムタナッビーの幼少期を語る文献はほぼ皆無とされ、自身も一切の生い立ちについて黙していた。通説では早くに母親は死去して、祖母により育てられる[4]。幼き日から詩才を発揮したとされ、ダマスカスで教育を受けた。青年になったおりにおいてムタナッビーはシリア砂漠に赴き、2年余り滞在してベドウィンと交流して多くのことを培われる。一旦クーファに帰郷したあと父とともにレヴァント各地の町を巡った。自身を高貴な家柄と信じて疑わなかったとされ、さらに預言者と称したという。そのことから預言者を自称するという意味がある「ムタナッビー」と呼ばれるようになる。ムタナッビーは政治活動に没頭したあまり故郷で反乱を起こす[5]。さらに預言者と称したことから政府に捕縛されて監獄に2年間投獄される。出獄後、はじめダマスカスに赴きそれからハムダーン朝のアレッポの宮廷に迎えられてサイフ・アッダウラに仕える。宮廷詩人として活躍して称揚詩や、さらに誹謗詩を数多く詩作して政敵を中傷した。約9年間とどまったがやがてサイフ・アッダウラに政治的野望を疑われてその身を追われた。ムタナッビーは957年に新天地としてエジプトに逃れる。
当時のエジプトはイフシード朝時代であり、芸術のパトロンで知られる実力者アブル・ミスク・カーフールにより宮廷詩人として迎えられた。しかしムタナッビーはいつしかカーフールから疎まれるようになり、やがてムタナッビーはカーフールに対する風刺や誹謗詩を書き中傷した。ムタナッビーはエジプトを脱出してクーファを経てそのはてペルシアの都シーラーズに身を寄せた。ブワイフ朝の宮廷に歓迎されアミールであるアドゥド・ウッダウラの庇護のもと965年までペルシアに滞在した。けれども望郷の念捨てがたくバグダードに帰郷する。しかし同年9月23日にバグダード近郊で何者かに襲撃され、あえなく最期を遂げた。盗賊とも政敵ともいわれるように諸説あるという。