イマーム・フサイン廟

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座標 北緯32度36分59秒 東経44度01分57秒 / 北緯32.61639度 東経44.03250度 / 32.61639; 44.03250座標: 北緯32度36分59秒 東経44度01分57秒 / 北緯32.61639度 東経44.03250度 / 32.61639; 44.03250
現況 現存
イマーム・フサイン廟
مَقَام ٱلْإِمام ٱلْحُسَيْن ٱبْن عَلِيّ
カルバラーにあるフサイン廟
イマーム・フサイン廟の位置(イラク内)
イマーム・フサイン廟
イラク国内の地図
基本情報
所在地 イラクの旗 イラクカルバラー
座標 北緯32度36分59秒 東経44度01分57秒 / 北緯32.61639度 東経44.03250度 / 32.61639; 44.03250座標: 北緯32度36分59秒 東経44度01分57秒 / 北緯32.61639度 東経44.03250度 / 32.61639; 44.03250
宗教 シーア派
現況 現存
形式 イスラム建築
建築物
ドーム数 2
ドーム高(外側) 27メートル (89 ft)
ミナレット 2(以前は3)
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イマーム・フサイン廟(イマーム・フサインびょう、アラビア語: مَقَام ٱلْإِمَام ٱلْحُسَيْن ٱبْن عَلِيّ )は、シーア派三代目イマームのフサイン・イブン・アリーのモスクである。現在のイラクカルバラーにある。

フサイン廟の眺め
ライトアップされたイマーム・フサイン廟

フサイン・イブン・アリーは、680年にスンナ派政権のウマイヤ朝に反旗を翻し戦争を起こした(カルバラーの戦い)。この戦いでフサインは惜しくも戦死してしまったが、シーア派の人々は彼を殉教者たちの長として尊敬をした[1]

そして彼を讃えて、684年にムフタル・イブン・アブ・ウバイド・アット・タカフィーによって建設が開始されたが、スンナ派政権であるウマイヤ朝アッバース朝ではたびたびカリフによる建設禁止や威嚇があった[2]。その影響でモスクは何度も破壊され、その都度再建された。迫害がなくなったのは、シーア派政権のブワイフ朝が政権を握ってからである[注釈 1]

1016年には大火災に見舞われ、当時の宰相ハサン・イブン・ファドルはモスクの再建を命じた。

1514年サファヴィー朝イスマーイール1世により、新しい石棺が作られた。その後アッバース1世アフシャール朝ナーディル・シャーなどにより修復・装飾が施された。

1796年ガージャール朝アーガー・モハンマド・シャーが建設資金を提供し、モスクのドーム金箔を貼った。

しかし1801年ワッハーブ派による襲撃があり、霊廟は損傷を受けた。それを受けファトフ・アリー・シャーは、モスクの修復に資金を提供した。

1991年サッダーム・フセイン政権に対するシーア派住民の反乱で、霊廟は再び被害を受けた。廟の修復には3年の歳月を要した[3]

イラク侵攻後、スンナ派とシーア派の対立の中で、モスクは何度も標的とされた。2004年3月2日、アーシューラーが行われていた最中に起きた自爆攻撃で、85人が死亡した[4]。同年12月15日には、霊廟の門付近に爆弾が仕掛けられ、7人が死亡、31人が重軽傷を負った[5]2008年3月17日には、女性がモスク付近で自爆し、43人が死亡した[6]

建物

廟内にあるフサインの墓

モスクの壁には、ガラス装飾が施された木製の門があり、その門を開けると中庭がある。フサインの墓は、ダリーフ英語版(ザリーフ、ダリーハ)と呼ばれる黄金の格子の中に埋葬されている。2013年3月5日、老朽化していた墓上のダリーフの交換作業が完了し、新しいダリーフが完成した[7]

関連項目

脚注

参考文献

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