ブワイフ朝
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
周辺地図
名称
ブワイフ朝の名は始祖ブワイフに由来する[3]。
歴史
ブワイフ家の発祥
ブワイフ家の発祥の地はカスピ海の南西岸の峻険な山岳地帯(ダイラム)で9世紀以降シーア派系のザイド派が布教し始め、そのイマームのもとで改宗者を増やしていた[4]。漁師ブワイフの子であるアリー、ハサン、アフマドの三兄弟はギーラーン地方を統治するズィヤール朝のもとでダイラム人歩兵を率いて戦に加わって頭角を現し、934年にはファールス地方を手中にした[5]。続いてアフマドはキルマーン地方からバグダードに進出し、ハサンはズィヤール朝からジバール地方を奪った[5]。3人はそれぞれの地域を独立して統治する体制をとった[5][注釈 1]。
大アミールとなる
946年1月、ブワイフ家の三男アフマドがバグダードに入城し、アッバース朝カリフのムスタクフィー(在位:944年 - 946年)から大アミールの職に任命され、ムイッズ・アッダウラの称号を授かった[4]。これ以降1世紀にわたってブワイフ家の大アミールがカリフに代わってイラークを統治した[4]。ブワイフ朝の勢力の拡大を支えたのは第一にダイラム人の歩兵隊で、第二は同族の絆であった[5]。山岳地帯に住むイラン系のダイラム人はサーサーン朝時代から忍耐強く勇敢な歩兵として知られていた[5]。一族は主に年長者が族長として指揮を執ったが、その地位はすべての王子が継承権を持ち、アリーの死後は弟のハサンへ、ハサンの死後はその子のアドゥド・アッダウラとファフル・アッダウラへ、その後はアドゥド・アッダウラの子へと移った[5]。第三には、在地のイラン人の地主層と協力関係を築いたことで、彼らをワズィール(宰相)などの官僚に登用したり、徴税を請け負わせたりした[5]。ブワイフ家は軍事能力によってのし上がってきたが、出自の点でも宗教の点でも権威を持たなかった[5]。このため、アッバース朝カリフによる権威の承認が必要であり、大アミールの職に任命されるとともに、歴代の大アミールはダウラ(国家)の守護者を意味する称号を授与された[5]。また、ペルシア語でシャーハンシャー(王の中の王)の称号も名乗り、イーラーンの王の概念を利用した[5]。
ブワイフ朝の統治
ブワイフ朝の支配領域はイーラーンとイラークにまたがっていたが、その中心はシーラーズを中心とするファールス地方で、豊かな穀倉地帯であり、また官僚層の輩出源となっていた[5]。ブワイフ朝の軍隊はダイラム人の歩兵勢力を基盤としていたが、ファールス地方に入って以降はテュルク人騎兵を採用し始めた[6]。バグダードに入城したときの軍隊はダイラム人、ギーラーン人、テュルク人の三種からなり、このほかアラブ人やクルド人の兵が加わることもあった[6]。テュルク兵はマムルーク(奴隷軍人)出身者で、ブワイフ朝がテュルク人マムルークを採用した理由は第一に、広大な領土を支配するために機動力に優れた騎兵を必要としたから[6]。第二に、ダイラム人の族長たちはブワイフ家の家臣ではなく同等の立場を主張し、過大な報償を求めたりしたためこれを牽制し、君主としての権力を強化するために忠実なテュルク人マムルークを用いた[6]。ムイッズ・アッダウラはバグダード入城を果たした後、ダイラム人の高官とテュルク兵の高官と将兵に対して俸給にかえてサワード地方の政府や民間の私領地(ダイア)の政府の取り分(税収分、収穫の約1/3)をイクターとして授与した[6]。このような措置をとったのは俸給の支払いを求めてダイラム人が暴動を起こし、政府の側では他の財源がなかったからである[6]。君主は給与面でもテュルク騎兵を優遇したが、このようなテュルク人の優遇策はダイラム人の反感を買い、両者の対立が政治の安定を脅かした[6]。ブワイフ朝は配下の軍人はもとより、対立したハムダーン朝やカルマト派に対しても、講和と引き換えにイクターを授与した[6]。イクターの授与の際に税収高を定めなかったため、イクターを与えられた軍人たちは農民から不当に税を徴収し、徴収にあたる奴隷兵や代理人や書記官が収入を横領したりしたため、農村は荒廃していった[7]。
ブワイフ朝の衰退


ムイッズ・アッダウラは無骨な武人で、アラビア語もほとんど話さなかった[7]。このため行政はワズィールのムハッラビーに委ね、ワズィールは君主と臣民の仲介役を務めた[7]。ムイッズ・アッダウラの死後、息子のイッズ・アッダウラ(在位:967年 - 978年)が後を継いだ[7]。973年には東ローマ帝国軍がシリア方面に進出し、イッズ・アッダウラはテュルク人将軍のサブクタキーンとともに遠征したが、その間の隙を狙ってハムダーン朝がバグダードを包囲した[7]。バグダードではテュルク兵とダイラム兵の対立が深まり、サブクタキーンが一時街を制圧し、イッズ・アッダウラはファールスのアドゥド・アッダウラの援軍を得て、975年にようやくバグダードに戻った[7]。アドゥド・アッダウラは978年にイッズ・アッダウラの軍を破ってバグダードに入った[7]。979年、彼はハムダーン朝からモースルを奪い、バグダード周辺のアラブ遊牧民の活動をおさえ、これらの地域からの税収によって軍人に給与を支給し、軍人の暴動も沈静化した[7]。また、バグダードの運河などの復興をおこなった[7]。しかし、983年にアドゥド・アッダウラが死去すると、ブワイフ朝の王子の間での君主位をめぐる争いが再燃し、ダイラム軍人とテュルク軍人および、文官の様々な勢力がこれに加担し、内紛は激化していった[8]。モースルは996年にウカイル朝のムカッラドに奪われ、ウカイル朝の勢力は南下し、1001年にはバグダードまで迫った[8]。バグダード市内では軍人の対立に加えてスンナ派とシーア派の宗教対立が生まれ、またアイヤールーンと呼ばれるヤクザ集団が街区を根城にして略奪や襲撃を繰り返し、治安は悪化した[8]。農村部の荒廃に加えて商業や交易も途絶え、イラーク地方自体の経済が衰退した[8]。困窮は大アミールにもおよび、ジャラール・アッダウラ(在位:1025年 - 1043年)は扶養できない従者を解雇し、馬を解き放つほどであった[8]。東方からはテュルク系軍人のガズナ朝やセルジューク族が西進し、ブワイフ朝の栄華は風前の灯となっていた[8]。
セルジューク朝のバグダード入城
セルジューク族はテュルク系のオグズ(トゥルクマーン)族に属し、トゥグリル・ベクとチャグリー・ベクの兄弟に率いられ、イーラーンのホラーサーンに入り、1038年にその中心都市ニーシャープールに入城した[9]。1040年にはガズナ朝をダンダーナカーンの戦いで破り、1046年から1051年にかけてイスファハーンを攻略した[9]。1055年、セルジューク朝はバグダードに入り、その族長であるトゥグリル・ベクはアッバース朝カリフからイスラーム史上初めてスルターンの称号を公式に授与され、統治権を委ねられた[9]。
セルジューク朝はガズナ朝やブワイフ朝に代わってイーラーンの支配権を握ると、アッバース朝カリフのカーイム(在位:1031年 - 1075年)に対して使者と贈り物を送り、支配権の承認を求め、バグダードへの軍の派遣の用意があることを伝えた[9]。カリフの側ではブワイフ朝の大アミール位をめぐる後継争いなどでバグダードの治安が悪化していたため、トゥグリル・ベクの申し出を認めた[10]。
国制
ブワイフ朝は当時はイランにおいても少数派であった十二イマーム派に属し、出自としても家祖ブワイフ以前のことはほとんどわからないような微賎な家系であったので、スンナ派が多数を占めるイラン・イラクを支配するためには、カリフによる権威の承認を必要とした。そのためにブワイフ朝は自身はシーア派の信徒であるにもかかわらずスンナ派のカリフを保護し、カリフから世俗の支配を委ねられた大アミールの地位を与えられた。ルクン・アッダウラ(「王朝の柱石」)、ムイッズ・アッダウラ(「王朝の強化者」)など、ブワイフ朝の諸政権の君主が名乗った王号は、ダウラ(アラビア語で「王朝」の意)を支える者という意味を持ち、カリフから支配権の承認とともに与えられた称号である。また、ブワイフの遠祖はイスラム以前のサーサーン朝の王族に遡るという主張がなされたり、サーサーン朝の君主の称号であったシャーハンシャー(「王の中の王」)を名乗り、バハラーム5世の子孫という系図を作成し、イラン的な支配者として正統性を打ち出すこともあった。
同族的な結合による連合政権であったブワイフ朝において、王朝の中心となるのは主にファールスの政権(首都はシーラーズ)だったが、大アミールとしてカリフの保護権を握り、カリフの改廃まで自由にする権威をもったイラク政権がブワイフ朝内外に対して政治的な影響力を持ちやすかったために、ファールス政権とイラク政権は王朝全体の主導権を巡ってしばしば対立することになった。この連合政権構造において中心が複数存在するという欠陥は、ブワイフ朝の衰退における致命的な要因のひとつである。
ブワイフ朝の樹立を支えたのは、精強な歩兵であるダイラム人の軍事力であったが、後には他の王朝と同じように、マムルークを採用するようになった。しかし、これらの軍人に対する俸給を支払うための財政的な基盤は、国家国有地制度の破綻によりブワイフ朝の建国時にはほとんど失われており、ムイッズ・アッダウラは946年にバグダードを征服した際に、特定の土地からあがる税を徴収する権利を軍人に授与するイクター制を導入した。以後、イクター制はイスラム世界の諸王朝で広く導入され、軍事・徴税制度の基本となる。しかし、ブワイフ朝の段階ではイクターの法制化に不備があり、授与されたイクターから徴収されるべき税の限度額が定められていなかった。このためイクター制の導入は結果的に、イクター保有者による過重な税の徴収と、それによる農村の荒廃を招き、ブワイフ朝の衰退を早める。
宗教
一般的に「ブワイフ朝はシーア派の十二イマーム派に属していた」と言われている[11][注釈 2]。しかしブワイフ朝の支配家系がもともと信奉していたのはザイド派であった可能性が高い[16]。アドゥド・アッダウラのアッバース家に対する態度は十二イマーム派的というよりむしろザイド派的である[16]。そもそも同時代の史料はブワイフ朝の宗教面についてあまり記述しておらず、そのシーア派的側面が強調されるのは、むしろ後代の史料においてである[17]。また、ブワイフ家がイスラームを受容することとした時期は、彼ら自身が主張する865年よりもずっと新しく、彼らが政治的に台頭してきたころと推定される[16]。
Busse (1975) によれば、ブワイフ朝は宗教的信条(何をどう信じるか)の問題、それ自体には無関心であった[16]。関心があったのは宗教の政治的側面である[16]。ブワイフ朝の軍事力はダイラムやギーラーンの出身者とトゥルク系及びクルド系軍人とからなり、前者が(ムスリムである場合は)ザイド派信奉者であったのに対して後者はスンナ派であった[16]。またファールス地方の住民はスンナ派が多かった[16]。このような状況下でブワイフ朝は各宗教・各教派間のパワーバランスの調整に腐心した[11][16]。ブワイフ朝は宰相にシーア派でもスンナ派でもないキリスト教徒を起用したり、シーラーズでゾロアスター教徒住民とムスリム住民が衝突した際にはより多くの被害を相手に与えたムスリム側を厳しく処罰したりしている[16]。軍事力の核となるトゥルク系軍人のシーア派への改宗の強制は政権崩壊につながりかねず、不可能であった[11]。
アッバース朝は749年の成立以後、一時的に融和的になったことがあるにしろ、基本的にシーア派を迫害し続けた[15]。これに対してブワイフ朝はシーア派に好意的であった[11][注釈 3]。これにより十二イマーム派の人々は、それまで個人宅で隠れて行われていたにすぎなかったフサインの殉教劇やガディール・フンムでのアリーの指名を祝う祭りなどの宗教的活動を公然と実施することができるようになった[13][15]。シーア派学者の学問的活動も活発になり[15]、クライニー、イブン・バーブーエ、シャイフ・トゥースィーらにより十二イマーム派の基本伝承書が編集された[13][18]。伝承書の編集と同時に法学の整備も進み、シーア派法学(ジャアファリー法学派)も成立した[13][18]。
菊地 (2009) は10世紀後半からバグダードのシーア派住民居住区で上述のような祭礼が行われるようになったことの重要性を指摘する[18]。当時、スンナ派住民も彼らの祭礼を模倣しつつ対抗し、ムスアブ・イブン・ズバイルの墓廟参詣やアブー・バクルの故事を祝う祭りを行っていった[18]。それまでシーア派と非シーア派の争いは、支配者、貴人、学者のものであったところ、少なくともバグダードでは、民衆レベルにまで広がっていった[18]。またそれと共に、各派が自他を分かつ教義や教えのあいまいなところを確定させていった[18]。なお、シーア派とスンナ派の対立の発生はシーア派を奉じるブワイフ朝が成立したためとする考えは誤りである[11]。対立が既に存在していたところにブワイフ朝が成立したのであって、原因はブワイフ朝ではない[11]。
対外的にみると、当時ビザンツ帝国が力を盛り返しておりスグールのイスラーム支配は崩壊していた[11]。ジハードの熱意に燃えるガーズィーがホラーサーンからアッバース朝カリフのいるバグダードに来訪するのであるが、彼らの取り扱いには慎重さが必要であった[11]。ジハードは彼らスンナ派の闘争であり、シーア派が参加できる余地はなかった[11]。北アフリカに国家を樹立したイスマーイール派のファーティマ朝は、ビザンツ帝国のシリアやパレスチナの支配を切り崩すことができたが、仮にブワイフ朝政権がイスマーイール派イマーム(=ファーティマ朝カリフ)に忠誠を誓うとすれば領地をすべて没収されることは明らかであった[11]。ブワイフ朝が独立勢力を維持していくには、スンナ派のアッバース朝カリフとの協力が有利な選択であった[11]。ブワイフ朝は政治的・軍事的に能動的なイスマーイール派やザイド派ではなく、消極的な十二イマーム派を選択し[11]、アッバース朝カリフを傀儡化することで支配の正統性を手に入れるという現実主義路線をとった[18]。
文化
20世紀前半に活動したロシアの東洋学者ミノルスキー(1966年歿)は、アラブ人による征服(7-10世紀前半)とトルコ人による征服(11世紀)の合間に興亡したブワイフ朝を「イラン人による
アドゥドッダウラの全面的な庇護を受けた哲学者であり歴史学者のミスカワイヒをはじめ、地理学者のイスタフリー、数学者のアブル・ワファー・ブーズジャーニーやナサウィーなど、ブワイフ朝の君主・宰相からサポートを受けた学者は数多い[19]。ブワイフ朝のパトロンたちは総じて、宗教諸学の学者よりも、(当時の基準で)なにかの役に立つ実践的科学の学者の方を好んだ[19]。シャラフッダウラは占星術師のためにバグダードに天文観測所を設立し、アドゥドッダウラは医学者のためにバグダードやシーラーズに療養所(ビーマーリスターン)を建てた[19][注釈 4]。
前イスラーム期のアラブの古い詩を多く収録したアブル・ファラジュ・イスファハーニーの『歌の書』、当時存在したアラビア語書籍のほとんどすべての文献情報を記載したイブン・ナディームの『目録の書』の編纂がなされたのは、まさにブワイフ朝の時代である[19]。『歌の書』と『目録の書』はアラビア語による文化的伝統の到達点ともいうべき2つの書物である[19]。11世紀最大の学者イブン・スィーナーはシャムスッダウラの宮廷で身の安全を確保し[19]、アラビア書道の能書家イブン・バウワーブはバハーウッダウラの書物庫で一時期活動した[22]。
他方で、ブワイフ朝は各政権の宮廷にペルシア語詩人を侍らせ、君主・宰相らのペルシア語文学への興味は真正のものだった[19]。ブワイフ朝君主は「シャーハーンシャー」の称号を復活させ、たとえ同時代の学者にすら眉唾物だと思われようとも、サーサーン朝帝王家の系譜のなかに自分たちの先祖を見出し、自らをサーサーン朝の末裔に位置づけようとした[19]。詩人フェルドウスィーを援助したサーマーン朝がペルシア語文学に果たした貢献に比べるべくもないが、バハーウッダウラの宮廷もフェルドウスィーを歓待した[19]。
歴代君主
ファールス地方
- イマード・アッダウラ(932年 - 949年) - ブワイフの長男。
- アドゥド・アッダウラ(949年 - 983年) - ブワイフの次男ルクン・アッダウラの子。
- シャラフ・アッダウラ(983年 - 990年) - アドゥド・アッダウラの子。
- サムサーム・アッダウラ(990年 - 998年) - アドゥド・アッダウラの子。
- バハー・アッダウラ(998年 - 1012年) - アドゥド・アッダウラの子。
- スルターン・アッダウラ(1012年 - 1021年) - バハー・アッダウラの子。
- ムシャッリフ・アッダウラ(1021年 - 1024年) - バハー・アッダウラの子。
- アブー・カーリージャール(1024年 - 1048年) - スルタン・-アッダウラの子。
- マリク・アッラヒーム(1048年 - 1055年) - アブー・カーリージャールの子。
- フーラード・ストゥーン(1055年 - 1062年) - アブー・カーリージャールの子。
イラク地方
- ムイッズ・アッダウラ(945年 - 967年) - ブワイフの三男。
- イッズ・アッダウラ(967年 - 978年) - ムイッズ・アッダウラの子。
- アドゥド・アッダウラ(978年 - 983年) - ファールス政権の君主。
- サムサーム・アッダウラ(983年 - 987年) - アドゥド・アッダウラの子。
- シャラフ・アッダウラ(987年 - 989年) - アドゥド・アッダウラの子。
- バハー・アッダウラ(989年 - 1012年) - アドゥド・アッダウラの子。
- スルターン・アッダウラ(1012年 - 1021年) - バハー・アッダウラの子。
- ムシャッリフ・アッダウラ(1021年 - 1025年) - バハー・アッダウラの子。
- ジャラール・アッダウラ(1025年 - 1043年) - バハー・アッダウラの子。
- アブー・カーリージャール(1043年 - 1048年) - スルターン・アッダウラの子。
- マリク・アッラヒーム(1048年 - 1055年) - アブー・カーリージャールの子。
ジバール地方
- イマード・アッダウラ(932年 - 947年)
- ルクン・アッダウラ(947年 - 977年)
<ハマダーン政権>
- ムアイイド・アッダウラ(977年 - 983年)
- ファフル・アッダウラ(983年 - 997年)
- シャムス・アッダウラ(997年 - 1021年)
- サマー・アッダウラ(1021年 - 1028年)
<ライ政権>
- ファフル・アッダウラ(977年 - 997年)
- マジュド・アッダウラ(997年 - 1029年)
ケルマーン地方
- ムイッズ・アッダウラ(936年 - 949年)
- アドゥド・アッダウラ(949年 - 983年)
- サムサーム・アッダウラ(983年 - 998年)
- バハー・アッダウラ(998年 - 1012年)
- カワーム・アッダウラ(1012年 - 1028年)
- アブー・カーリージャール(1028年 - 1048年)
系図
F:ファールス地方、I:イラク地方、S:ジバール地方、SH:ハマダーン政権、SR:ライ政権、K:ケルマーン地方、をそれぞれ示す。数字は統治順。
| ブワイフ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| イマード・アッダウラ F1, S1 | ルクン・アッダウラ S2 | ムイッズ・アッダウラ I1, K1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| アドゥド・アッダウラ F2, K2, I3 | ムアイイド・アッダウラ SH1 | ファフル・アッダウラ SR1, SH2 | イッズ・アッダウラ I2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| シャラフ・アッダウラ F3, I5 | サムサーム・アッダウラ F4, I4, K3 | バハー・アッダウラ F5, K4, I6 | シャムス・アッダウラ SH3 | マジュド・アッダウラ SR2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| スルターン・アッダウラ F6, I7 | カワーム・アッダウラ K5 | ムシャッリフ・アッダウラ F7, I8 | ジャラール・アッダウラ I9 | サマー・アッダウラ SH4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| アブー・カーリージャール F8, K6, I10 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| マリク・アッラヒーム F9, I11 | フーラード・ストゥーン F10 | アブー・アリー・ホスロー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||