イラクリ・アラサニア
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| イラクリ・アラサニア | |
|---|---|
| ირაკლი ალასანია | |
| 国防大臣 | |
| 任期 2012年10月25日 – 2014年11月4日 | |
| 首相 | ビジナ・イヴァニシヴィリ イラクリ・ガリバシヴィリ |
| 前任者 | ドミトリ・シャシキン |
| 後任者 | ミンディア・ジャネリゼ |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1973年12月21日(52歳) バトゥミ( |
| 政党 | 自由民主主義者党 |
| 配偶者 | ナティア・パンジキゼ |
| 子供 | 2人 |
| 出身校 | トビリシ国立大学 |
| 宗教 | グルジア正教会 |
| 受賞 | |
| 兵役経験 | |
| 所属国 | |
| 所属組織 | ジョージア陸軍 |
| 軍歴 | 1994年 – 2004年 |
| 最終階級 | 大佐 |
イラクリ・アラサニア(ირაკლი ალასანია、1973年12月21日 – )は、ジョージアの政治家、軍人、外交官。アブハジア自治共和国首相(2004年–2006年)、国連大使(2006年–2008年)、国防大臣(2012年–2014年)を歴任。
イラクリ・アラサニアは1973年にアジャリアのバトゥミにて誕生。彼は未成年にもかかわらずアブハジア戦争に参加。戦争末期には父親のマミア・アラサニア将軍から圧力を受け、アブハジアへの居住を余儀なくされた。彼の父親は1993年9月のスフミの陥落時に、他のジョージアの政治家とともに殺害された。
イラクリ・アラサニアは1995年にトビリシ国立大学を卒業し、国際法の学位を取得。また並行して、1994年から1996年までジョージア安全保障アカデミーの課程を受講。1994年から1998年までジョージア国家安全保障省で勤務。1999年にパンキシ渓谷危機が始まると、アラサニアは衝突を解決する主要人物の1人となった。彼はロシア軍がチェチェン共和国に協力することに反対した。彼は2002年2月から2004年2月まで国防副大臣、2004年3月から2004年7月までジョージア国家安全保障会議副書記を務めた。
外交経歴
2004年9月28日、ジョージア大統領ミヘイル・サアカシュヴィリはアブハジア亡命政府議長にアラサニアを任命した。2005年2月15日、サアカシュヴィリ大統領はジョージアとアブハジアの和平会談に対する補佐官としてアラサニアを起用。当初はアブハジア独立主義の指導者からの反対を受けたが、後に国際連合グルジア監視団の圧力下で受け入れられた。この期間中、アラサニアは複数のアブハジア政治家と良好な関係を築くことに成功し、2006年3月には両国間の直接交渉の場となるジョージア=アブハジア調整委員会を再開するための役割を担った。同月、ジョージアとアブハジアの交渉からアラサニアを排除することは直近の良好な勢いを妨げることにつながる可能性があるという専門家の意見から、アラサニアはジョージア代表の国連大使に任命された[1]。
アラサニアはアブハジア問題に取り組み、その努力によって、国連総会においてジョージアにおける紛争の被災者問題が議論された。その結果、資産の返還や、難民・国内避難民のアブハジア帰還権を認める決議 GA/10708 が採択された[2]。その後もアラサニアは大統領特使としてアブハジア問題への対応を続けた。2008年5月12日、アラサニアは非公式にスフミを電撃訪問し、ジョージアとアブハジアの和平計画を発表した。この動きは、ジョージア=アブハジア間の交渉の膠着状態と、アブハジアに対するロシア=ジョージア間の緊張の高まりの中での出来事であった[3]。
2008年の南オセチア紛争の際、国連大使であったアラサニアはジョージア側のキーパーソンとして機能し、国連安全保障理事会との交渉を担った。アラサニアは国際連合および国際的な圧力による迅速かつ決定的な紛争終結のための圧力を求めた[4]。2008年12月4日、アラサニアはジョージア政府がロシアとの紛争に介入することを懸念し、国連大使を辞任した[5]。
