ウォレス=ジョンソン
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彼は1894年/1895年シエラレオネのフリータウン半島にあるウィルバーフォースの村で、貧しいクリオ(クレオール)の家族として生まれた。1911年ミッション・スクールに通い中退、18歳で税関職員として勤務したが、シエラレオネの労働組合を組織するのを手伝い、すぐに解雇された。その後、第一次世界大戦中は輸送部隊の水兵となった。1920年の除隊後、水夫として働きながらシエラレオネ地方政府の腐敗を暴露する為に出資したりした。
1930年に彼は、ナイジェリアに行き、ナイジェリアで最初の労働組合を設立した。またハンブルクで7月に開かれた黒人労働者国際労働組合会議 (ITUCNW) に参加し議長に選ばれた。彼は編集委員として別名で会議の出版物 "Negro Worker" の編集に携わった。この頃に彼は主な黒人の共産主義者の多くと交わり、一時モスクワに学んだ。1933年彼はナイジェリアに戻ろうとしたが、数ヶ月後にゴールド・コーストに移送された。
1930年代にウォレス=ジョンソンはジョージ・パドモア、C・L・R・ジェームズ、T・ラス・マコーネンなどの西インド諸島の活動家らと国際アフリカ奉仕事務局に関わった。労働党議員とも親交があり一時ロンドンで過ごしたが、独立運動の資金を集めることができなかった。彼は金がなく、ある時期には食うにも事欠いた。このため彼はソ連から資金を得ていた、あるいは勤めていた新聞社から横領していたなどと主張されている。彼は公然とソ連の金を受け取ったことを認めたが、共産主義はその当時発展しかけていた反植民地運動における多くの選択の余地のあるイデオロギーの1つであり、これはふざけて彼の政治活動における名声を加えるためだったかもしれない。
ゴールドコースト
ゴールドコーストで共感的な編集者に迎えられ、ウォレス=ジョンソンは大衆政治的な経験を積んだ。イギリス議会に植民地の境遇を問う質問状を送り、アメリカ合衆国でのスコッツボロ事件(Scottsboro Boys)に対する法的支援団にも出資した。1934年の41人が亡くなったプレステアの鉱山事故に対し、労働条件の改善と市民的自由を求める運動を行った。ウォレス=ジョンソンはそこでの労働条件を証言するために自ら鉱夫に変装した。
1936年6月に彼は西アフリカ青年連盟 (WAYL) を結成し、初代書記に就任した。フランス植民地やポルトガル植民地との協力は実現していなかったが、全西アフリカ的な組織となることを目指した。WAYL は議会での植民地の代表を支援したが第二次エチオピア戦争により反植民地主義傾向を強めた。ウォレス=ジョンソンと WAYL のレトリックは、マルクス主義の言葉遣いとキリスト教のイメージを利用したが、一部の政治家による奴隷制と植民地主義の正当化に使われるヨーロッパ的なキリスト教解釈に反対した。WAYL の新聞 "Dawn"(夜明け)紙は週刊を目指したが、散発的に発行された。1936年までで WAYL はゴールドコーストに17の支部を置いた。ゴールドコーストで、激しい植民地主義批判を行ったために投獄された。