ウォーリー山口
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日本スポーツ出版社発行のプロレス専門誌『月刊ゴング』および『週刊ゴング』のライター(ピラニア山口のペンネームを使用)を経て、レフェリー、マネージャー、コメンテーターなどで幅広く活躍する。
ヒールのマネージャーとしては、1990年代にインディー団体においてミスター・トヨタ(Mr. Toyota)を名乗り、みちのくプロレスのデルフィン軍(スペル・デルフィン、新崎人生、愚乱・浪花)などを担当。顔にペイントを施し、WARではミッシング・リンクとも共闘した[1]。1998年にはヤマグチ・サン(Yamaguchi-San)の名義でWWFに登場し、カイエンタイのマネージャーを務めた[2][3]。
1999年から2000年にかけては、ブッカーとしてインディー団体『世界のプロレス』を主宰[4]。ビル・アーウィン 、バリー・ダーソウらを招聘した。2000年7月には、プロレスリング・ノアとの分裂騒動で選手やスタッフが大量離脱した全日本プロレスにレフェリーとして参加した。