ウクライナ独立戦争

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結果 ソ連ポーランドルーマニアチェコスロバキアによるウクライナ分割。
領土の
変化
ヴォルィーニガリツィア東部はポーランドに、ブコヴィナ北部とベッサラビア南部はルーマニアに、ザカルパッチャはチェコスロバキアに、それ以外のウクライナの地域はソ連に併合される。
ウクライナ独立戦争

1917年、キーウソフィア広場にて行われたウクライナ人民共和国支持者によるデモ。
1917年3月7日[1] - 1921年11月17日[2]
場所ウクライナ
結果 ソ連ポーランドルーマニアチェコスロバキアによるウクライナ分割。
領土の
変化
ヴォルィーニガリツィア東部はポーランドに、ブコヴィナ北部とベッサラビア南部はルーマニアに、ザカルパッチャはチェコスロバキアに、それ以外のウクライナの地域はソ連に併合される。
衝突した勢力

ウクライナ人民共和国
西ウクライナ人民共和国
ホロドニー・ヤール共和国英語版ウクライナ語版
ドイツ帝国[注釈 1]
オーストリア=ハンガリー帝国[注釈 2]

ポーランド共和国[注釈 3]

ソヴィエト・ロシア
ソヴィエト・ウクライナ
ウクライナ人民共和国 (ソビエト派)


マフノフシチナ[注釈 4]

ウクライナ国
ドイツ帝国[注釈 5]
オーストリア=ハンガリー帝国[注釈 6]


ロシア白軍


ポーランド共和国[注釈 7]
ルーマニア王国[注釈 8]


ギリシャ王国

フランス第三共和国
指揮官

ミハイロ・フルシェフスキー
シモン・ペトリューラ
ヴォロドィームィル・ヴィンヌィチェーンコ
ミハイロ・オメリアーノヴィチ=パヴレンコウクライナ語版
イェヴヘン・ペトルシェヴィチウクライナ語版
コスト・レヴィツキーウクライナ語版
ユーリー・チュチュンニクウクライナ語版
コンスタンティン・ペストゥシュコウクライナ語版

ヴァシル・チュチュパクウクライナ語版

ウラジーミル・レーニン
レフ・トロツキー
ウラジーミル・アントノフ=オフセエンコ英語版
ミハイル・フルンゼ
フョードル・セルゲーエフ英語版
イェフィム・エフドキモフ英語版


ネストル・マフノ

フェディル・シュチュスウクライナ語版

パヴロ・スコロパツキー
フェディル・リゾフブウクライナ語版
アレクサンダー・ラゴザウクライナ語版
コスチャンティーン・プリソーウシクィイ[注釈 9]


ヴィルヘルム2世
カール1世


アントーン・デニーキン
ピョートル・ヴラーンゲリ
フョードル・アルトゥーロヴィチ・ケールレル
ミハイル・ドロズドフスキー英語版
ミハイル・ロジャンコ
アブラム・ドラゴミロフ
コスチャンティーン・プリソーウシクィイ[注釈 10]
ブレドフ・ミコラ・エミロヴィチウクライナ語版


ユゼフ・ピウスツキ
ヨゼフ・ハラー英語版

エドヴァルト・リッツ=シミグウィ

ウクライナ独立戦争またはウクライナ革命(ウクライナかくめい、ウクライナ語: Українська революція)は、1917年3月7日から1921年11月17日にかけてウクライナの独立を掲げるウクライナ人民共和国及び西ウクライナ人民共和国や、ウクライナの支配を目論んだソヴィエト・ロシアポーランド等によって繰り広げられた戦いである。

1917年2月、第一次世界大戦中のロシアで二月革命が起きると、ウクライナ中央ラーダは同年11月に自治を宣言し、翌1918年1月22日にはウクライナ人民共和国として独立を宣言した。後のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊の前後、西ウクライナ人民共和国も独立。両ウクライナはウクライナ統一法英語版に調印し統一した。しかし外部勢力に攻め込まれたことによって、ウクライナは1921年にソヴィエト・ロシアポーランドなどの国々によって分割された。

18世紀以降、ウクライナはロシア帝国オーストリア大公国(後のオーストリア=ハンガリー帝国)によって分割されていた。ロシアはエムス法ウクライナ語版を制定し、公の場でのウクライナ語の使用を制限した[3]。それとは対照的に、オーストリアはウクライナ人に対して寛容的だった[4]

1914年、第一次世界大戦の勃発により、ロシアとオーストリアは交戦状態に突入。ウクライナ人は両陣営に分かれて、東部戦線にて争った。ちなみにこの時、オーストリア領におけるウクライナ人はウクライナ・シーチ銃兵隊としてオーストリア=ハンガリー帝国軍英語版[5]に志願している。

経過

ウクライナ独立

1917年、第一次世界大戦が継続する中、ロシアで二月革命が勃発。これによりロシア情勢は混乱したため、それを好機にウクライナ中央ラーダは同年11月に自治を宣言。翌年の1月22日にはウクライナ人民共和国として完全独立を宣言。

第一次ソヴィエト・ウクライナ戦争

しかし、ボリシェヴィキソヴィエト・ロシア)がウクライナ人民共和国に対して攻撃を仕掛け、第一次ソヴィエト・ウクライナ戦争が勃発。ウクライナはクルーティの戦いで奮戦したが、首都キーウソヴィエト軍に奪われ、ウクライナ人はボリシェヴィキによる弾圧を受けた[6]

しかし、ウクライナ人民共和国は、食料100万トンを提供することを条件にドイツとオーストリアによる支援を受け、両軍と共にキーウを奪還。

後に独墺ら中央同盟国ブレスト=リトフスク条約によりウクライナの独立を正式に承認。また、この時点ではソヴィエト・ロシアはウクライナと停戦し、同国の独立を承認した。

ヘーチマンの政変

ドイツは前述した食料の確保を安定して行うことを目的に、パヴロ・スコロパツキー将軍のクーデター(ヘーチマンの政変)を支援。スコロパツキーはウクライナのヘーチマン(棟梁)となった。スコロパツキー政権は中央ラーダを解散させ、ウクライナ人民共和国の国号をウクライナ国に変更した[7]

ウクライナ人民共和国の復活

スコロパツキー政権の後ろ盾となっていたドイツが敗戦したことに伴い、ディレクトーリヤは撤退するドイツ軍と協定を結び、スコロパツキーを退陣させてウクライナ人民共和国を復活させた。

しかし、ソヴィエト・ロシア軍が再びウクライナへの侵攻を開始。さらに、ロシア白軍もウクライナへの侵攻を開始したため、ウクライナ人民共和国軍は両軍と交戦状態に突入した。

西ウクライナ人民共和国の独立

ドイツ敗戦の直後にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、それに前後して西ウクライナ人民共和国が独立[8]

ウクライナ統一

ソヴィエト軍やロシア白軍ウクライナ人民共和国を攻め込んでいる最中、ポーランド軍は西ウクライナ人民共和国への攻撃を開始(ウクライナ・ポーランド戦争)。

両ウクライナは、外敵を退けることを目的にウクライナ統一法英語版を宣言した。

しかし西ウクライナ人民共和国はポーランド軍に占領され、ウクライナ人民共和国もソヴィエト軍に圧倒されていた。

旧敵ポーランドとの共闘

ウクライナを実質的に分割したソビエトとポーランドであったが、今度はその両国が敵対・交戦し始めた。

ウクライナ人民共和国の指導者シモン・ペトリューラは、ソヴィエト打倒を掲げ、ポーランドのウクライナ西部の占領を承認する事を条件に同国の協力を取り付けた(ワルシャワ条約 (1920年)英語版ウクライナ語版)。ポーランドは、独立ウクライナの建国を支持したのだった。

こうして、ウクライナの支援もあってポーランド軍はソヴィエト軍に対して勝利した。

ウクライナ分割

しかし戦後に締結されたリガ平和条約ではポーランドはウクライナ独立の建国をソヴィエト・ロシアに強く訴えなかったため、ウクライナ東部ウクライナ語版中部ウクライナ語版南部ウクライナ語版はソヴィエト・ロシアの傀儡のソヴィエト・ウクライナに組み込まれた。そしてポーランドはウクライナとの約束を果たさなかったにもかかわらずウクライナ西部を併合した。

その後のウクライナ

関連項目

脚注

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