ウスヴャートィの戦い
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経緯
1225年、リトアニア軍7000人が、トロペツ全域を占領し、トルジョクを荒廃させた。ノヴゴロドの年代記によると[1]、ノヴゴロドの軍は参加せず、トロペツとトルジョクの人々が、彼らの公のダヴィド(ムスチスラフ・ムスチスラヴィチの兄弟)と共にヤロスラフの援軍に赴いた。また、援軍の中には「ウラジーミルと子」という記述があるが、これはムスチスラフ・ムスチスラヴィチの兄弟のウラジーミル(ru)と、その子のヤロスラフ(上記のヤロスラフとは別人)であるとみなされている。
なお、『ラヴレンチー年代記』によると[2]、1224年にウラジーミル大公ユーリーが、弟のウラジーミルらを援軍に送ったという記述があるが、年代記には援軍の目的が記されていないため、1225年1月6日に、キエフの府主教になったキリル2世(ru)への援軍とも、ウスヴャートィの戦いへの援軍ともみなすことができる。
いずれにせよ、ヤロスラフはウスヴャートィ付近でリトアニア軍と交戦し、撃破した。2000人を殺害し、戦利品を得た。また、年代記はこの戦いで、援軍に来ていたトロペツ公ダヴィドが戦死したことを伝えている。
リトアニアの侵入は1225年から1226年の間の冬のことであり、勝利したのは1226年3月1日のことだった。