ウルフキテル

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死亡 1016年
配偶者 (不詳)[注釈 1]
ウルフキテル
Ulfcytel

イースト・アングリア伯
(事実上/正式な伯ではない)
在位期間
1004年頃 – 1016年

死亡 1016年
配偶者 (不詳)[注釈 1]
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ウルフキテル(Ulfcytel)[注釈 2](1016年没)とは、11世紀初頭のイースト・アングリアの軍事指導者である。彼は1004年、デンマーク王スヴェン1世に率いられたデンマーク・ヴァイキングのイングランド侵攻に対する戦いでイースト・アングリアの軍勢を指揮した。敗北はしたものの、デンマーク人は「ウルフキテルが自分たちに浴びせた反撃ほど苛烈な戦いに、イングランドで出会ったことはない」と述べたという[6]。彼は1010年のリングミアの戦い英語版でも地方のイングランド軍を率いて敗北し、1016年にはアッサンダンの戦いで戦死した。彼はエアルドルマン(太守)英語版アングロ・サクソン時代のイングランド英語版において第2位の高位)に相当する権限を行使していたが、歴史家を困惑させることに、正式にその称号を与えられることはなかった。

ウルフキテルは、デンマーク人のヴァイキングヴァイキングのブリテン諸島襲撃英語版に対する不十分な抵抗が最終的にデンマークによるイングランド征服へと帰結した、エゼルレッド無策王(在位:978年–1013年および1014年–1016年)の治世において、とりわけ尊敬を集めたイングランド人の軍事指導者であった。ウルフキテルは『アングロサクソン年代記』およびスカンディナヴィアのスカルド詩で高く称賛され、さらにアングロ=ノルマン英語版の著述家や近現代の歴史家からも評価されている。スカンディナヴィアの史料は、彼に「勇敢な」を意味する添え名snilling を付し、宮廷詩人シグヴァトル・ソールザルソン英語版は、彼にちなみイースト・アングリアを「ウルフケル(Ulfkell)の地」と呼んだ。彼の名の語源はスカンディナヴィア系であるが、その出自や背景は不明である。ある史料によれば、彼はエゼルレッド王の娘と結婚していたというが、その主張が信頼できるかどうかについては歴史家の間で意見が分かれている。

ウルフキテルは11世紀初頭、エゼルレッド無策王の治世における、尊敬された軍事指導者であった[7]。この時期に関する主要史料は『アングロサクソン年代記』の写本C(ASC C)であるが、これはエゼルレッドの死とデンマークによるイングランド征服の後、1016年から1023年の間に書かれた版に基づいている[注釈 3]。1970年代以降、歴史家たちは ASC C の記述の信頼性に対して次第に懐疑的になってきており、エゼルレッド治世の悲惨な帰結を知った上で書かれたことによる偏向があるとみなしている。歴史家レヴィ・ローチ英語版は、「最終的にイングランドが敗北するという予見が、(著者の)文章のあらゆる箇所につきまとっている」と評している。 ASC C はエゼルレッド無策王治世におけるイングランドの敗北を、イングランド側の無能さと臆病さに帰し、それを王自身ではなくエゼルレッドの部下たちの責任として非難している[10]。アングロ・サクソン史のもう一つの重要史料は勅許状史料群であり、これらは通常は王が個人や宗教施設に対して土地または特権を付与する文書である[11]。ウルフキテルが勅許状に証人として署名していることは、彼とその地位に関する決定的な情報を与える[7]。しかし現存する勅許状の多くは、宗教施設が特定の権利や土地所有権を主張する目的で作成した偽作(贋作)である[12]

ウルフキテルはスカルド詩にも広く記録されているが[13]、これらは主としてスカンディナヴィアの王やその他の指導者に対する賞賛と批判に捧げられたものである。この暗示的で謎めいた詩は、12世紀後半になって初めて書き留められた。歴史家ラッセル・プール英語版は、それが「ブリテン諸島の歴史家にとって史料として扱いにくい限界に接している」と述べている[14]。それでも彼は、他では見られない情報の一部が「受け入れを促すだけの一般的な蓋然性を備えている」と論じ、当該時期に関して『年代記』が抱える欠陥を踏まえれば、歴史家はこの詩を無視する余裕はないとしている[15]

背景

Detail of medieval manuscript illustration, showing Æthelred the Unready seated on a throne
13世紀中葉に編纂された伝記『Vie de Seint Aedward le Rei(聖エドワード王の生涯)』に描かれたエゼルレッド無策王

イングランドは9世紀初頭から950年代にかけて外国からの侵入に苦しんだが、その後は一世代にわたる平和が訪れた[16]。しかし、エゼルレッド無策王[注釈 4](在位:978年–1013年、1014年–1016年)の治世初期に、デーン人による攻撃が再開され、980年代には小規模な襲撃が行われた[18]。991年には、デンマーク艦隊がイングランド南東岸で継続的な作戦を開始した。ヴァイキングは、エセックスブラックウォーター川英語版河口部のノーシー島英語版を占拠し、エセックスのエアルドルマン(太守)であったビュルフトヌス英語版が彼らの侵略を阻止すべく軍勢を率いて出陣した。最終的に、ビュルフトヌス率いるイングランド軍はモルドンの戦いでヴァイキングと激突し、敗北したうえビュルフトヌス自身も戦死した[17]。彼は(王を除く貴族身分として最高位の)エアルドルマンのうちでも2番目に高位の人物であり、ローチは、彼の敗北と死が「王国全体に衝撃波を送った」と述べている[19]。王と顧問団は、デンマーク人がイングランドから去ることと引き換えに1万ポンドの貢納を与える決定を下したが、彼らはほどなく戻ってきて、990年代にはさらなる侵入と貢納の支払いが続いた[20][注釈 5]。1001年、ヴァイキングはイングランド南部を荒廃させ、翌年には2万4千ポンドの貢納が支払われた。1003年には、デンマーク王スヴェン1世(1013年から1014年にかけてイングランド王になることで知られる。)に率いられたデンマーク軍が南西部で活動した[17]

姓名と地位

ウルフキテルは、1002年に勅許状英語版(土地および特権の付与文書)の証人として、はじめて記録に現れる[22]。1004年までには彼はイースト・アングリアにおける有力者となっており、1016年に死去するまでその地位を保ったが[23]、その出自や背景は不明である。彼はエアルドルマン(太守)英語版の職務を遂行していたが、勅許状への署名(認証)においては、貴族階層の第3位にあたる従士(thegn)を意味するラテン語 minister として名を連ねている。エアルドルマンは、王の名の下に、また王の代理として行動する地方支配者であり、戦時には有力者として軍勢を率いた[24]。歴史家レヴィ・ローチとルーシー・マーティン英語版は、彼をイースト・アングリアの事実上のエアルドルマンであったと描写している[25]。また、アングロ=ノルマン英語版系の歴史家は、ウルフキテルの死後まもなくエアルドルマンに取って代わった呼称である「伯(earl)」として彼を記している[26]

エゼルレッドはしばしば、エアルドルマンの職(エアルドルマン領)を長期間空位のままにし、その職務を遂行させるために代官英語版高位代官英語版に依拠しがちであった。ローチは、ウルフキテルがこれらの職のいずれかを担っていた可能性を示唆している[27]。歴史家ライアン・ラヴェル英語版は、エゼルレッドがイースト・アングリアのエアルドルマン職を空位にしていたのは、前任者であるエゼルウィン太守英語版が厄介な存在であったためかもしれない、と述べている[28]。ウルフキテルの名の語源はスカンディナヴィア系であり、マーティンは、彼がイングランドの軍務に就いたデンマーク人ヴァイキングであった可能性を示唆しているが、これは、彼が正式にエアルドルマンに任命されなかった理由を説明しうる[29]

軍歴

ウルフキテルが『年代記』に初めて登場するのは1004年の条であり、そこではスヴェン王が艦隊をノリッジへ率いて来て町を破壊したことが記されている。対するウルフキテルとイースト・アングリア人の指導者たちは、『軍勢を集める時間がなかったため、さらなる被害が出る前にデンマーク人を買収するのが最善である』という決断を下した。休戦が取り決められたが、デンマーク人はそれを破り、船からセットフォード英語版へ向かった。ウルフキテルは船を破壊するよう命じたが、その任を負った者たちはそれを遂行しなかった。デンマーク人はセットフォードを荒らし回り、船へ戻る途中で、ウルフキテルの急ごしらえで集められた軍勢と遭遇した。双方に多数の戦死者が出たが、デンマーク軍は船に戻ることができた。『年代記』によれば、もしイースト・アングリア人が全軍を集結できていればデンマーク人は逃れられなかったはずであり、またデンマーク人は「ウルフキテルほど自分たちに果敢に反撃を加えてきたイングランド人とは彼を除いて出会わなかった」と述べたという[30]。軍事史家リチャード・エイベルズ英語版は、「デンマーク人はピュロスの勝利を得た。ひどく打ちのめされた彼らは船へ退いた」と評している[7]。エイベルズは、ウルフキテルが王の同意を求めずに独自に行動できた点を、エゼルレッド治世下における有力地方有力者が有していた、王権代理的(viceregal)権限の一例として捉えている[31]。ヴァイキングへの貢納支払いは一般的であったものの、『年代記』で言及される際にはほとんど常に批判の対象となる。歴史家アン・ウィリアムズ英語版は、ウルフキテルの決定が合理的なものとして描かれていることは注目すべき例外であり、貢納を支払ったとして非難される他の有力者に比べて、ウルフキテルに対する『年代記』の偏り(好意)を示していると述べている[32]

のっぽのトルケルに率いられたデンマーク人ヴァイキング軍は、1009年から1010年の冬をケントとエセックスで過ごした。復活祭の後、彼らはイースト・アングリアへ向かい、ウルフキテルがイースト・レザム英語版リングメール英語版(セットフォードの北東5マイル (8キロメートル)にあたる。)に軍勢を率いて宿営していることを察知し[33][注釈 6]、イースト・アングリアおよびケンブリッジシャーの兵から成るウルフキテル軍に挑むべく東レザムへ進軍し、5月5日に両軍はリングメールで衝突英語版した[36][注釈 7]。ケンブリッジシャーの民兵たちは踏みとどまり戦い続けたが、イースト・アングリア勢は戦闘開始時に逃走し、結果、アングロ・サクソン側は大敗を喫し、多くの指導者を失うこととなった。デンマーク人はその後イースト・アングリアを荒らし、セットフォードとケンブリッジに火を放った[38] 。ウィリアムズは、1010年の侵入を「怨恨による攻撃」とみなし、1004年にデンマーク人が被った痛打への報復であったとしている[39]

エゼルレッド王は1016年4月に死去し、王位はその子の剛勇のエドマンド(在位1016年4月–11月)が継承した。エドマンドは以後数か月にわたり、スヴェンの子クヌートと一連の戦闘を通じて王位を争った[17]。ウルフキテルは、1016年の戦闘を述べる『年代記』では、死に関する記述を除いて言及されないが[40] 、スカンディナヴィアのスカルド詩は、彼をイングランド側抵抗の最終段階におけるアングロ・サクソン軍の指導者の一人として描き、同時代の『en:Liðsmannaflokkr』は彼の役割を称賛している[41]。歴史家アリステア・キャンベル英語版とラッセル・プールは、ウルフキテルの役割に関するスカンディナヴィア側の描写には、おそらく史実的な根拠があると認めている[42]。プールは次のように記している。

Liðsmannaflokkr』における、ウルフキテルがロンドンに、あるいはその近辺にいたという言及を、完全に独立した種類の裏づけと見なすことはできない。それでもなお、暫定的に言えるのは、1015年 - 1016年の戦争におけるウルフキテルの役割は、(彼の正確な位階と権限がいずれにせよ不確かな)イースト・アングリアに限定されていたのではなく、エイリーク伯と同様に、より広範なものであった、ということである。『アングロサクソン年代記』の叙述においては、彼の貢献はエドマンドのそれによって覆い隠された可能性がある[43]

デンマーク軍は1016年夏にロンドンを包囲し、スカルド詩は、ロンドン西方で行われた両者痛み分けとなった戦闘を描写している。そこでは、ウルフキテルがイングランド軍を率いつつ負傷したという。プールは、この叙述に関する難点として、『年代記』が包囲戦中にイングランド軍を指揮したのは剛勇王エドマンドであったと述べている点を挙げる。しかし、エドマンドがウェセックスへ去った後に誰が指揮を引き継いだのかは不明であり、それがウルフキテルであった可能性があるという[44]。プールはまた、『Liðsmannaflokkr』では「エゼルレッドとその子エドマンドが、ウルフキテルを優先する形で完全に無視されている。彼が当初からヴァイキングにとって最も頑強で有能な敵手であったという認識が、そこに含意されているのかもしれない」と述べている[45]

ウルフキテルは、1016年10月18日のアッサンダンでのイングランドの負け戦で、他の複数のイングランド側の指導者らと共に戦死した。クヌートとエドマンドはその後、王国を分割することで合意したが、まもなくエドマンドが死去したため、クヌートが全王国の王となった[46]。14世紀後半の『フラート島本』(Flateyjarbók)に保存されている『ヨムスヴァイキングのサガ英語版』の補遺(Supplement to Jómsvíkinga saga)によれば、のっぽのトルケルが自身の兄の死に対する報復としてウルフキテルを殺害したという。エイベルズは、これが真実かどうかを知ることは不可能であると述べている[7][注釈 8]

私生活

Portion of yellowed manuscript page written in Anglo-Saxon
1009年付の勅許状S 922。第4欄の上から6番目にウルフキテルの署名がある[48]

ウィリアムズは、「ウルフキテルは偉大な戦士であっただけでなく、敬虔な人物であり、ベリー・セント・エドマンズ修道院英語版の寄進者でもあった」と記している[23]。日付不明の憲章において、彼はリッキングホール英語版ローグハム英語版ウールピット英語版ヒンダークレイ英語版レドグレイヴ英語版の所領(いずれもサフォーク地域)を同修道院へ寄進した[49][注釈 9]。彼はおそらく、1014年にエゼルレッド無策王の長子アゼルスタン王子が遺言において父王へ遺贈した、銀の柄を備えた剣の以前の所有者として言及されるウルフキテルと同一人物であるとされる[51]。ウルフキテルは1002年から1016年にかけて従士として勅許状の証人を務め、1013年以降は同階級の筆頭として名を連ねた[22]

『ヨームスヴィキングのサガ補遺』(Supplement to Jómsvíkinga Saga)によれば、彼の妻はエゼルレッド王の娘ウルフヒルド(Wulfhild)であり、彼女はのっぽのトルケルがウルフキテルを殺害した後にトルケルと再婚したという。歴史家たちはこの後代の史料を信頼性に欠けるものとみなしており、ウルフキテルがエゼルレッドの娘と結婚したという話自体がありそうにないと考える者もいるが[52]、その一方で、その主張を蓋然性がある説であるとみなす者もいる[53]

評価

ウルフキテルは同時代史料およびアングロ=ノルマン系の歴史家たちの間で高い評価を得ている[54]。同時代のスカンディナヴィアの書物は、彼に「勇敢な」「大胆な」を意味する添え名snilling を付し、宮廷詩人シグヴァトル・ソールザルソン英語版は、彼にちなみイースト・アングリアを「ウルフケル(Ulfkell)の地(Land)」と詠んでいる[55]。12世紀の歴史家マームズベリのウィリアムは、侵略者であるデーン人に対して精力的に抵抗した唯一の指導者として、彼を特に取り上げている[56]。マーティンは次のように述べている。

アングロサクソン年代記』におけるエゼルレッド治世の年代記記事では、イースト・アングリアへの言及は、その軍司令官ウルフキテルの英雄的な武勲と結びつけられている。ウルフキテルは興味深い人物であり、とりわけ、イングランド側の史料と同じくらい多くのことが、スカンディナヴィアのスカルド詩から読み取れる点にそれがある……。ウルフキテルは、スカンディナヴィア世界全体において、戦士として羨望すべき名声を獲得したのである[57]

近現代の歴史家たちも、彼を高く評価している[58]。エイベルズによれば、「ウルフキテルはデンマーク人と戦った3度の戦闘すべてで敗れた側にいたにもかかわらず、その粘り強さと激しい勇気によって敵からの尊敬を勝ち得るとともに、『アングロサクソン年代記』のこの節の著者の称賛を得たのである」という[7]

注釈

脚注

参考文献

外部リンク

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